ピロートーク

やがて性愛

『マッド・マックス 怒りのデスロード』について

リベラルでありたい、話の分かる人でありたいと無意識のうちに思ってしまい、人の悩みや話を聞くのがどんどん下手になってきている。

人と仲良くなり会話をする。お互いの複雑な事情なども少し知るようになる。友人らは語る。「パートナーがモラハラ気味でね」「うちの親っていわゆる毒親で」「職場の上司が暴言が酷くて」

そういう難しい、とても難しい話は、ついつい言ってしまいたくなる言葉がある。『そんな環境逃げた方がいいよ』『逃げるのは悪いことじゃないよ』『私は○○ちゃんが幸せならそれで良い』


言葉にした後、あるいは言葉が出る寸前に 何か酸っぱいものがこみあげてくる。またやってしまった、良い奴ぶってしまった。

逃げていいよ は合ってる。

逃げるのは悪いことじゃない も合ってる。

友人にはただ幸せでいてほしい も合ってる。

ただ、わたしはこれを自分が楽したくて、話の分かる人だと優しい人だと思われたくて無責任に言ってると気付いてしまった。気付いたらもう同じことは言えない。

「そうか 大変だったんだね そんな上司 わたしに呪いの力さえあれば解決できたかもしれないのに わたしに呪いの力が無くて 力になってあげられなくて ごめんね」こんなことをボロボロと話す。元から呪いの力の話をしてるわけではないので、支離滅裂だ。


この前、テレビ地上波で『マッド・マックス 怒りのデスロード』を見た。

脳天をぶっ放すようなアクションシーンや、キャラクター造形、映像技術など好きなところは色々とある。でも一番好きなのはマックスらの最後の判断だ。


支配者から逃げ出して、求めていた「緑の大地」は無くなってて、どうしようかもうさらに先に進むしか無いんじゃないか、と、悩んだ結果、元いた場所へ戻る。但し、自分を支配してたものを討ち、自分は真の英雄となって。

逃げて逃げ切っておしまいの物語ではない。でも逃げなければ何も始まらなかった。逃げて、その後、どうするか。その悩みと判断があの映画の底を厚くしたとわたしは思ってる。

 


わたしは友人らに本当はこう言いたい。

まずは一旦逃げて。そしてその後、武装せよ。立って、あなたを支配するものを討て。そしてあなたの力であなたの世界を変えなさい。

ただ、どちらにしろわたしは責任を取れないので、またしても支離滅裂な感想をボロボロと口からこぼすだけなのだ。

この田舎でも役立たず

緊急事態が出されていた折、わたしは結構明るく楽しく暮らしていた。部屋に花を飾り、本を読み、テイクアウトのおいしいご飯を食べ、『仁』(医療ドラマ)と『バックトゥザフューチャー2』のテレビ放送を見た。仁先生もドクも、現代から離れた時代にタイムスリップしてしまうものの、元から持っていたスキルをフル活用してその時代で一生懸命生きている。仁先生は医者として、ドクは鍛冶屋として。

 

わたしがタイムスリップして、江戸時代や開拓時代のアメリカに飛ばされたら、どうやって日銭を稼ごう、わたしにできること何かしら、と考えると一気に暗い気持ちになってきた。何もできない…。

 

教師を生業としている知人に「〇〇ちゃんは良いよね 江戸時代にタイムスリップしても寺子屋の先生として暮らせるもんね 手に職があるって素晴らしいね」と泣き言をぼやくと「あっちゃんなら何でもできるよ、江戸時代でも大丈夫だよ」と優しい言葉をかけてもらえた。

お茶屋さんかお団子屋さんで下働きでもさせてもらえたらいいんだけれどな…立札の人相書きとかならできる気がするんだけれど…わたしって役立たずだな…。

 

暗い気持ちになり、せめてタイムスリップ時にめちゃくちゃ役に立つ(あるいは儲けらえる)道具を持参することで、チートを発生させて生きていくしか思いつかない。十徳ナイフとかミシンとか。

 

それはさておき、先日スパに行き人生初のアカスリをした。
全裸の心もとない恰好のまま身体中を磨かれていく。体のアカを出し切ったあとは、ふわふわの泡で優しく洗われ、ジェルをつけて体のマッサージをしてもらい、頭皮のツボまで押してもらった。
とても気持良くて癒されながら、『テルマエ・ロマエ』の大浴場内にも、マッサージ師みたいな人がいたよなあと思った。
わたしの身体中のアカをこすってくれているこのお姉さんはローマ時代にタイムスリップしても安泰なんだろう。うらやましい。

 

役に立ちたい、人から褒められたり感謝されたり喜んでもらいたい。そう思う自分もいるけれど、役になんか立たなくても良い。人は居ることそのものに意味がある、と思う自分もいる。
役立たずのつるつるのスベスベ・マイ・ボディが愛おしい。自分のことを抱きしめられないのがもどかしいくらいよ。

またアカスリに行こう。お肌のターンオーバーは28日だってお姉さんが言っていたから来月あたりかね。


<わたしならこの田舎でも役立たず曇ったままのカーブミラーも>嶋田さくらこ

あんな表情を見せたくせに

前歯が大きい子ってチャーミングよね。笑ったときに上の歯が3つくらい見えているのって妙にかわいい。八重歯もキュートだけれど、私は前歯のほうが好き。


わたしの母は歯と目にはうるさく、この二つだけは大切にするようにと強く教え込まれた。他のものと違って取り返しがつかない、とのこと。わたしもそう思うし、この教えは子々孫々伝えていきたいものだ。

(母は嵐なら松潤が一番かっこいいと言う。彼は歯並びがいいらしい。テニスプレーヤーの錦織圭は歯並びが気に食わないと嫌っている。有名人はそんなことで好きだの嫌いだの言われるから大変だなと思う)


わたしは母ほど人の歯並びにはうるさくないけれど、最近スヌーピーの歯がかわいいなと思う。

スヌーピーは犬のくせに、歯がきれいに横に並んでいる。そのうえ食後は器用に楊枝などで歯間のごみをとるのだ。


私は2019年の10月からスヌーピーが好きになった。あいつの何がかわいいかというと、表情が豊かなところだ。グッズの中ではだいたいにっこり笑ってるかキョトンとした顔をしてるかだけれど、漫画やアニメーションの中では怒ったり泣いたり照れたりすねたりといろいろな表情を見せてくれるのが良い。人間でも動物でもキャラクターでも、わたしは表情が豊かな人が好きなのだ。


スヌーピーのアニメを見ていると、アンパンマンミッフィーやディズニーキャラクターではあまり見ることのできない人間らしい(犬のくせに!皮肉!)表情が出てきて、そのたびにわたしはゲラゲラ笑う。でもアンパンマンのブチ切れた姿や、ミッフィーの嫉妬に狂った様や、プーさんの号泣場面が見たいというわけではない。あの子たちには、あの子たちなりの表情と感情があるのだろう。それを脅かすような世界観をわたしは望まない。


スヌーピーグッズが世の中にはたくさんあって、毎週毎月のようにコラボアイテムが発売されている。けれど、だいたいのアイテムに描かれてるスヌーピーはにっこり笑っているか、キョトンとした表情だ。つまんないな、と思う。怒ったり泣いたり焦ったりすねたりした表情のアイテムがあるといいのに。と、思いつつもスヌーピーのあんな表情を知ってるのはわたしだけな気がしてきてそれはそれで誇らしくなる。


もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに/加藤治郎

背中あわせで目覚めても

入社したての頃に文具一式を支給された。
ペンや定規、のり、はさみ、クリップとかと一緒に消しゴムと多機能ボールペンが入っていた。
消しゴムは普通のMONOのやつ。ボールペンは、シャーペンの他、赤黒青緑のボールペン機能がついているやつ。
赤黒青はよくあるけれど緑は珍しいなと思い、わたしは消しゴムを覆うカバーをずらして、ある時期 死ぬほど好きだった人の名前を書いた。

 

昔流行ったおまじない。
消しゴムに緑色のペンで好きな人の名前を書いて、そのまま使い切れたら両想いになるっていうやつ。
こんなおまじないをやるのは、本当に10年ぶりとかだった。当時は緑色のペンがなかなか見つからず(女児用文具コーナーに)苦労したものだった。
できるだけ早く使い切るために、意味も無く机の角にこすりつけて消しカスを生産したけれど、今はそんなことはしない。ていうかする暇がない。後輩の指導もあるし、任されることや残業時間が増えていて、恋する気持ちのみに捧げる時間は少なくとも業務時間中には無い。

でも、消しゴムはもうすぐ使い切る。わたしも強くなったなと思う。
おまじないの効果なのかかどうかは分からないけれど、消しゴムが小さくなったなと思い始めた頃から良い縁があって、愛するダーリン(固有名詞)と暮らし始めている。役所の手続きや契約等も、少し前に二人分完了した。

 

自分の暮らしが面白いことになってきたなと思う。なんか人生ゲームみたい。

今のやつを使い切ったら今度は誰の名前を書くかは決めていない。でもまあ適当にやるから、気にしないでいいよ。

 

<朝の陽に背中あわせで目覚めても抱き寄せられてふたたび眠る>中家菜津子

火のない夜もひかりはあふれ

生理のだるさが今月も律儀にやってきてじわじわと体に泥みたいな重さをべったりと塗りつけていった。体がその重たさに耐えきれずに横たえる。水を飲む。少し眠って、お腹がすいたから冷蔵庫前までのそのそ行きパンとチーズを食べる。また眠る。体をひきずるように移動して、私の休日は半径数メートルで終わった。

手負いの獣とはこんなものだろうと思う。

わたしの場合たまたま雨風をしのげる場所と、やさしい布団と羽ありの夜用ナプキンがあっただけで、これが野生のジャングルだったら真っ先に狙われていただろう。人間でよかった人間でよかったと思いながらまた眠る。

調子がいいときはテレビを見て、本も読める。SNSもチェックできる。もっと調子がいいときは洗濯も料理もできるし出かけることもお酒も飲める。でも今日はだめだ。ぼろぼろの内臓をもった獣は一日中同じパジャマで眠ったり祈ったりぼうっと楽しいことを考えて過ごす。

そのうち寝すぎて眠れなくなる。そんなときは前に漫画で読んだ「眠れないときのコツ」を試してみる。寝やすそうな場所を出来るだけ具体的にイメージして、イメージの中で寝てみるそうだ。布団の上は今日一日中居たので飽きてしまった。やわらかそうな動物のお腹の中で、子猫や子犬がおちちをもらうような寝方がいいなと思った。そのときはニャンも横に居てほしい。大きなどうぶつの中に、わたしとニャン。みんなで丸くなって寝たら気持ちいいだろう。手負いの獣は、優しい獣によって癒されるのだ。ううう、わたしこういうのに弱いんだよな、と思い涙が出てくる。これも全部生理の情緒不安定のせいということにして、安らかに、眠れ。

 

<ああ水がこわいくらいに澄みわたる火のない夜もひかりはあふれ>井上法子


(ニャン子もいるけどあの子は騒がしいから今回はよしておく ごめん)

ドラマ『きのう何食べた?』のケンジについて

ドラマ「きのう何食べた?」を見ている。原作ファンとして申し分ない仕上がりで、非難のしようがない。twitterやコラムなどを見てても、みんな褒めていてわたしも嬉しい。

キャスティング、脚本、雰囲気や原作再現度など、褒め要素はたくさんある中、ケンジ役の内野聖陽さんの演技が素晴らしいらしい。わたしは演技に関して全く門外漢子ちゃんなので口うるさくはないんだけれど、わたしでも分かるくらい演技がうまい。
西島秀俊さんももちろん良い。ちょっとピリピリと睨んだ時の感じとか立ち居振る舞いがシロさんって感じ。


ただわたしは個人的な恨みが内野聖陽にはあるため、内野聖陽のことばかり気にしながらドラマを視聴している。詳細は以下参照。

  

atsukohaaaan.hatenablog.com

 
「憎き徳川め…鳥もも肉など食いやがって…」
三方ヶ原の戦いでうんこもらしたくせに…」
「真田の恨み…ケンジ…」
「ケンジ…ケンジ…おいしそうだね…」

「ケンジ…幸せになれよ…」


てなわけで内野聖陽を許すことになった。過去は水に流そう。今を生きよう。

今週は『きのう何食べた?』はお休みなので、来週が楽しみです。大河ドラマ『いだてん』については、真田丸ほどでは無いけれど毎週楽しく視聴しています。あつこテレビだーいすき!

大切な人を見送っていた

リビングルームに恐竜がいる。恐竜を見たのは初めてだったので驚いたが、サイズは動物園のカバくらいで、意外と小さいんだなと思った。見た目からして草食っぽいけれど、暴れられたりしたら怖いので、触りたい気持ちを抑えてベッドルームの陰からこっそり見ていた。色は青い。
おとなしく、ただ立っているだけだ。どうしようかなと思い陰から見つめていると、恐竜は動き出した。玄関の方へ前進し、どうにかしてドアーを開け、外へ出て行った。大丈夫かなと思い、追いかけるようにドアーを開けて見ると、恐竜はエレベーターを降りていったようだ。
ドアーの開け方や、エレベーターのボタンの押し方も気になるし、エレベーターに入れたことが不思議でしょうがないけれど、どうにかなったらしい。
ベッドルームに戻り、恐竜がマンションから出てくるのを見ていた。怖い、よりも心配が勝っていた。
のっしのっしと歩いて、大通りの方へ出ようとしていた。「大丈夫かなあ」とわたしが言うと「青い恐竜だったろ、なら大丈夫だよ」と同居人に言われた。
そういうもんなのか、と知り安心する。茶色系は危ないらしく、世の中にはいろんな恐竜がいるんだなと思った。あの青い恐竜には百日紅がよく似合う気がするけれど、もう行ってしまって何もできないのでそう思うだけでおしまい。台所に行って、冷蔵庫をあけた。


これが2019年3月4日に見た夢。良い夢だったな。さすが夢らしく、現実との整合性がとれていないけれど(うちの間取りもマンションのつくりも違った)そんなことはどうでもいい。

 

恐竜好きのいいところはすでに絶滅してしまってるところだと思う。居なくなってしまった生き物と、遠い遠い昔を想うことが日々の暮らしの中でできるのは、わたしにはかなり魅力的だ。(今のわたしの暮らしの中では、ドラえもん読むときぐらいしかその体験はできない)

 

もう何年かここに住んだら、次はペット可のマンションに引っ越したいな。

恐竜がペットに含まれるのかはわからないけど、毎日お世話するし躾もきちんとやる。寄り道や夜遊びやムダ遣いもやめるから。あ  でものび太とピー助は最後お別れしちゃったよな…でもあれは漫画だし…役所に届けを出せば大丈夫なんじゃないかなとか考えてる。どこかで恐竜拾いたい。絶対にかわいがって、仲良しになって、ずっと一緒にいるんだ。

 

<いつかしらどこかでこうして陽にさらされ大切な人を見送っていた>斉藤光悦