ピロートーク

やがて性愛

輝けわれの雑多なる生

ミニマムライフやシンプルな暮らし、はわたしには到底無理な話で、目をはなせばすぐに物が増えてしまう。物を増やさないように努力はしているが、定期的に片づけをしてなんとかわたしの暮らしは体裁を保てている。この“いっぱいいっぱい”がわたしのダサさの根源なのだろうと思い、ため息が出る。
もっとしゃれた、スマートな暮らしがしたいものだが、それをやるゆとりが無いだけかもしれない。

わたしの長年の友人に、何事もスマートな人がいる。Sちゃん。思い返してみればSちゃんは生き方の全てがスマートだった。受験や就活など人生の転機もスマートにこなし(影で見えない努力をしていたのだとは思う)、悩みや愚痴を言うときもあっけらかんとしていて、何より部屋の荷物が少ない。Sちゃんの家に行った時にあまりのシンプルさに感動してしまった。

そんなSちゃんは下着を年に1回しか買わないそうだ。7月らしい。「7月に古い下着は全部捨てて、その年着る分の下着を数着買う。そして1年間でそれを着つくす」と言っていた。あっそれだ!!!と思い、わたしも昨年からマネをしている。7月の第一週に下着を買い、それまでずるずると着ていたボロの下着を全て捨てた。現在5月なので、今手持ちの下着もだいぶボロになってきた。

洗練された暮らしは無理だとしても、こういった「期日」を設けて、そのルールに則った暮らしならわたしにも続けられるかもしれない。下着だけでは無くて、他の者や家事雑事においても、こうやって期日と更新の作業を続けて、いつかスマートな人になりたい。そう思っている。そんな話を、最近飲み友達になったMちゃんに話した。すると、後日、また二人で飲んでいる時に券をもらった。
「昨日化粧品買ったら、なんか貰ったからこれあっちゃんにあげるね」と渡された券はユニクロのエアリズムのキャミソールかパンツの無料引換券だった。「いいの?ありがとう~~~」とわたしは感謝を伝えた。
「なんかこの前あっちゃん、今下着が全然無いって言ってたじゃん。だから、それでパンツ増やしなね」とのこと。なんとなく、わたしの話が完全には通じていなかったんだなと分かったが、これはこれで面白いので、ありがたく受け取った。Mちゃんの中ではわたしが「手持ちの下着が無い子」なのだろう。いや、あるけど。ボロなだけで。

 

スマートな暮らしを渇望するより深く、わたしは「変な勘違い」を愛してるかもしれない。その前は他の友人Rちゃんに「あつこのお兄さんってマタギやってるんだよね?」と聞かれた。どこかでわたしがテキトーに言ったほら話がいつのまにか真実性のある話になっていたみたいだ。面白いから「確か山梨にいるらしい」と勘違いを助長させて、その話は終わらせた。

 

Sちゃんはわたしの知らないところで、スマートに暮らすために今頃ボロの下着を身につけ、Mちゃんはわたしの下着事情を心配し、Rちゃんはわたしの兄を山梨でマタギをやってる人だと思ってる。今この瞬間も、3人の他人にこの事象が起きているということに、わたしはなんとも言えない面白みを感じる。

 

<振り払うべきものばかりしょいこめば輝けわれの雑多なる生>鈴木英子

「ドラえもん のび太と宝島」鑑賞文(ネタバレ有り)

ドラえもん のび太の宝島 を知人と見に行った。そのぐらい時間を持て余してしょうがない日があったのだ。劇場版のドラえもんを劇場で見るのはわたしは15年ぶりぐらい、知人は20年ぶりだった。

物語の基本にあるのは親子愛と勇気。
ドラえもん一行は宝島冒険の最中に、ある一家に出逢う。その一家は、昔、母(妻)を亡くしていた。研究者の父と、少年とその妹。みんながみんな、家族を大事に想っているはずなのに、その想いゆえに、すれ違い、ストーリー内最大のトラブルがやってくる。そのトラブルを回避させようと奮闘するドラえもん一行。途中途中に、笑える箇所や過去の映画のオマージュがあり、見ごたえは抜群。

映像もとてもきれいで、波しぶきのひとつひとつがキラキラしている。青い空青い海青いドラえもん、夏が来るのが楽しみな気持ちになった。子どもたちがキャッキャと楽しそうに遊んでいるのを見るとわたしも嬉しいし、みんなが不安な顔をしたり泣きそうな顔をしているとわたしにも伝染してしまう。

 

 

ここからはネタバレ。
個人的な趣味としての一番の感動ポイントは、のび太の勇気だ。
のび太の勇気の見どころは2カ所あった。
一つ目が、さらわれたしずかちゃんを助けようとする場面、二つ目が、スーパー大ピンチに陥ったドラえもんを助けようとする場面だ。

一つ目のしずかちゃんを助けようとする場面では、しずかちゃんは小型潜水艦のような乗り物に連れ込まれてさらわれるのだが、そこにのび太は衝動的にしがみつき、一緒に海の底まで行こうとする。もちろん助けることは出来ずに、のび太は途中で溺れしまった。でも、わたし達はのび太が泳げないということを知っている。だから、そんなのび太が、しずかちゃんのために海に飛び込んだということに胸を打たれる。
二つ目のドラえもんを助けようとする場面では、しずかちゃんの時の衝動とは全く別だった。僕が助けに行かなければ、と思うも脚が震えてたじろいでしまう。自分を奮わせ、勇気を振りしぼり、ドラえもんの元へ駆け寄るのび太

これらの場面を見て、そうだ、と思い出した。前者と後者の「助け方」は全く別のものだけれど、のび太は大好きな人のためなら動こうと出来る子なのだ。映画だから主人公補正がかかっている部分はあるだろう。でも、昔の映画でしずかパパが言っていた「人の悲しみを悲しめて人の喜びを自分のことのように喜べる」というのび太の長所はこういった行動で表れてくる。

ドラえもんに駆け寄るのび太の姿を見て、しずかちゃんも動き出す。これで救える、と思ったその時、あまりに膨大なエネルギーに3人は抱き合ったまま、外の世界へ放り投げだされる。ああもうダメだと観客が思った瞬間に助けてくれるのは、ジャイアンスネ夫といった仲間たちだった。これがこの映画の答えだと思う。

みんなみんなそれぞれ良いところがあるのだ。
のび太は前述したような勇気が、ジャイアンには男気が(映画定番!)、スネ夫の「抜かりなさ」を発揮することで良い連携プレーを生み出す。しずかちゃんは優しくて困難な場面でも柔軟に対応することができる。
わたしは星野源が歌う主題歌『ドラえもん』の「何者でもなくても世界を救おう」が思い出す。
何者かでなくちゃ何かを救えないなんてことは無い。でもみんなが何者かというわけでは無い普通の少年少女だ。だからこそ、みんなの長所を生かすことでハッピーエンドへ向かうことが出来るのだ。

数年分の映画をいっぺんに見ているような感じになる充実した内容だった。ちなみに映画の中で一番かわいかったのはミニドラたち。マジ主役級の可愛さ。イエーイ、ラブ・ハピネス。
 

思えば遠き春のこと

昨年2月に祖父が亡くなり、4月には四十九日が行われた。喪服を着て新幹線で新大阪へ向かった。法要は夕方前には終わったが、父母は実家の片づけや引き出物の準備等があるとのことなので、わたしと兄の二人で先に東京へ戻ることになった。

 

 

その時期、ニュースで森友学園の小学校や幼稚園の問題が取り上げられていた。それらの学校は、わたしの実家から行ける場所にあるため、タクシーで新大阪駅へ向かう際に、少し遠回りをして見に行くことにした。野次馬根性だ。

 

タクシーをつかまえて、運転手のおっちゃんに「豊中市の野田町にある野田中央第二公園のあたりまで」と地名で頼むと、運転手さんは場所が分からないと言った。「じゃああの森友学園のあの赤い小学校に行きたいんですけど…」と頼むと大体わかってくれた。細かなナビは兄がGoogleマップを見ながら指示を出した。運転手さんは「野田町にあるのは知ってたけど実際に行くのは初めて」と言っていた。

 

赤い小学校はなかなかしゃれていて立派だった。テレビカメラは来ておらず、学校前の公園では子供たち元気よく遊んでいた。

運転手さんには、待っていてもらい、わたし達はタクシーを出て、写真を撮った。ひとしきり撮り終えて後ろを振り返ると、運転手さんもタクシーを出て小学校の写真を撮っていた。

 

タクシーにまた乗り込み、今度は大阪市淀川区にある塚本幼稚園に連れて行ってほしいと頼むと、運転手さんに「失礼ですけど、あんたら新聞記者か何かですか?」と聞かれた。「ただの観光中の兄妹です」と答えた。全部事実なのだが、それにしても怪しすぎる喪服姿の二人だっただろう。

 

塚本幼稚園は、町の風景になじんだ目立たない幼稚園だった。窓越しからぬいぐるみやカラフルな掲示物の影が分かるが、門が閉じているからよく見えない。わたしと兄は記念写真を撮り、ダブルピースをしてふざけたりした。幼稚園を少し回り込んで覗いてみると、柵の向こうに送迎バスが見えた。送迎バスはネコの形をしていて、調べたところ、クラクションの代わりに「ニャー」と鳴くらしい。超可愛くて乗りたくてしょうがなかった。

「いやー 良い幼稚園だ 素晴らしいなこりゃ」「教育に適した素晴らしい環境ですね」とわたし達は話し合い、やっと新大阪駅へ向かった。

 

新大阪駅へ向かう間、運転手さんは安倍総理の悪口や政治への不満をわたし達に語った。関西弁で喋るから、リズムがあってなんとなく面白おかしく聞こえた。

 

その後、籠池夫妻が逮捕されたときは思わず「逮捕されちゃったね」「他人事とは思えないよな」と話した。最近、またニュースでこの話題が再熱して、なんか凄いことになっている。

わたしが政治や国のカネや 問題についてどう思うかは置いておいて、そのニュースを見るたびに「ああ あの幼稚園と小学校…」と、まるで母校のように懐かしさとニャーと鳴く送迎バスへの恋しさが募るのだ。

 

<今にして思えば遠き春のこと望まずおりし日々を差し引く>山田消児

それぞれの影を濡らして


かっこいい別れを演出するためにお習字を習いたい。

たとえば、互いに愛しあっているのに、別れを切り出さなければならない恋なんかだと理想的だと思う。
直接でなんてとても言えないから、サイドボードの上にあるメモに「さようなら」と一言書いて、わたしは早朝に部屋を出ていく。
少し遅れて起きた彼は、わたしの不在に気付いた後、そのメモを見て全てを察する。彼は立ち上がり、ブラインドの傍へ向かう。そして、昨夜とこれまでを思いながら、ブラインドを開ける。窓の外には一人で過ごすことになるこれからの朝がやってきている。そんな彼の姿には、煙草が一本あっても絵になるだろう。

要するにわたしの想像力は貧困そのものなので、こんなありきたりな別れ方に憧れ、その憧れの場面が訪れた時のためにお習字を習いたいと思っているのだ。


わたしの字は丸っこくて、大人っぽい字とはあまり言えない。下手ではないけれど、かっこいい別れの場面にふさわしい字かというと、そうでは無い。切なさが残る大人の恋の終わり、というよりも女子高校生が書いた手紙の字っていう感じだ。

試しに白いメモに「さようなら」と書く練習をしてみる。あまり真っ直ぐに丁寧書くと形式ばって見えるから、さりげなく見えるように走り書き気味に。斜めにずらしてみたり、縦書きにしたり、字のサイズを変えてみたり、様々な形の「さようなら」を書いた。
「さようなら」「さようなら」「さよなら」「さようなら」
今まで言えなかった分もこれから言う分も。文字の後ろに、誰かの顔の影がちらつく気がしたけれど、それも含めてお別れだ。みんなみんな、さようなら。
呪文を唱えるように書いているうちに、メモが「さようなら」で埋め尽くされてしまった。
こんなメモを人に見られたら、ギョッとされてしまうことを案じ、数個の「さようなら」を消した。フリクションで書いていて良かったと思った。消したはずの文字が、うっすら残っていることが気になった。

 

<それぞれの影を濡らしてわたしたち雨だった、こんな雨だった>井上法子

 

2017年下半期 読書記録

2017年下半期は、ほとんど資格の勉強に費やしたりしてたので読書はなかなかできませんでした。本棚の本を取り出して、久しぶりに読んだり、勉強の本を読んだりばかりでした。

てなわけで、初めて読んだ本で、よかったものは一冊だけ。

○昔々の上野動物園、絵はがき物語
明治・大正・昭和… パンダがやって来た日まで/小宮輝之(求龍堂

絵はがきがかわいいのはもちろんだけど、関東大震災や戦時下を動物たちがどのように生き死に、民衆に求められたりかわいがられたり、政府から扱いに困られたりしたかがよくわかって良い。

たとえば、気に入ったり心に残ったエピソード。
関東大震災後の復興中にライオンのペアをエチオピアから迎え、そのペアから生まれた二頭の乳母はブルドッグだったとか(ふたごのライオンはオスの方に“富士”メスの方に“桜”と名付けられたらしい)
キリンのペアーを育てるにあたって、冬は温めようとストーブをガンガン焚いたら、温まった空気は上に上がるので頭ばかりあったまってしまい、一年持たなかった経験が明治時代にあったので、昭和の時はその反省を生かして飼育したら繁殖や長生きに成功したこと、
太平洋戦争の猛獣処分にあたって一番犠牲になった動物はクマで、戦後に呼んだヒトコブラクダは蹄のクッション部分が固くなり歩けなくなってしまったので、獣医さんがラクダ用のクッション性のある靴を作って履かせたり。他にもたくさんあるけど、微笑ましかったり涙ぐんでしまったり。
事実を書く以上、明るい話だけではなく暗かったり悲しいエピソードもあるので、読んでてあっちらこっちら心が動かされて忙しかった。
読書できてないなぁ、もっとしないとなあ。

以上です。

渋谷から阿佐ヶ谷までの終バスに

渋谷が苦手という話。

都内の大きな駅はなんとなくイメージがつくけど、渋谷だけはどうしても何度行っても意味がわからない。

新宿もややこしいかもしれないがブロックごとにイメージしたら大体分かる。
東口はアルタや伊勢丹、少し行けば三丁目と歌舞伎町。西口は高層ビル群、南口はバスタがある。
池袋は東口と西口が分かればほぼ攻略。東口にはサンシャインがあって、西口には立教大と芸術劇場。北口は歓楽街。
上野ならどこから出たら何があるかイメージしやすい。上野公園方面、アメ横方面、あっち側から出たらパンダのでかいぬいぐるみがいる。
東京駅はあっちが丸の内でこっちが八重洲側。品川はあんまり行ったことないから忘れちゃった。


ところが渋谷。
これは常日頃言ってるんだけど、渋谷駅は江戸城に似てると思う。

ほら京都は碁盤の目状に街ができてるっていうじゃない。それと江戸城は真逆で、江戸城は、江戸城を中心に放射線状に街ができてる気がするのよね。図参照。

 

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それと同じで渋谷も渋谷駅を中心に街が組み立てられてて、訳がわからん。ハチ公側にいたつもりが少し歩いてたら別のゾーンに居る、みたいなことが多々ある。図参照。

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人と渋谷で会って、何食べる?とか〇〇ってどっちだっけ?とかなっても何一つ分からなすぎるからわたしは「渋谷よかロンドンの方がまだ案内できるレベルで渋谷は無理」と何も言えなくなる。ロンドン行ったことないけど。たぶんロンドンの方が案内できる気がする。

 

イラスト変だったらごめん。てなわけで渋谷が苦手です。一緒に行くことになっても何も期待しないでください。何も知りません。

 

<渋谷から阿佐ヶ谷までの終バスに揺られおり母の胎内おもいて>斎藤光

夜の浮浪の群に入りゆく

自分は人並みにきれい好きだとは思うが、潔癖症というわけでは全然無い。周りに自称潔癖症の人が何人かいるので、聞いたところ、多かれ少なかれこんな感じだった。


・自宅以外の便座に座りたくない
・人~他人がにぎったおにぎりは嫌
・洋服の貸し借りに抵抗有り
・温泉に抵抗あり~自宅のお風呂でも一番風呂がいい
・リップクリームの貸し借りに抵抗有り
・「一口ちょうだい」など食事に手をつける、つけられる
・電車のつり革には触りたくない
・バスタオルは家族共有では無く個別にしたい
・自分のベッドで人に寝られると嫌だ
・外に出る服と部屋着を分けたい
・ウォッシュレットは使いたくない
・寄せ鍋の直箸はされたくない
・旅館とかでのスリッパ共有が嫌だ


わたしはこの中だと「他人が素手でにぎったおにぎり」のみ抵抗がある。土井善晴先生が握ったなら別だけど。上記の項目を大きく分けると対外的・対内的の二つに分かれるのかな?
【知らない人が関わってるのは嫌だ系】か、【自分のテリトリーを守りたい系】みたいな?細分化しようとするとなかなか難しい。


わたしの友人のKさん(男性)はその中でもなかなかの潔癖症なため、上記のことは大体あてはまる。一緒に食事などしていても「ねえ これ こうやって食べようと思うんだけど大丈夫?」とめっちゃ気をつかうが、まあそれは他人と関わるってことはそういうことだよなとぐらいには思うし、それを抜きでもKさんとは仲良しのお友達なので、嫌では無い。(面倒ではある)

「じゃあ、友達の元カノと付き合うとかは平気なの?」と聞いたら「潔癖とかじゃなくてそれはなんか嫌だけど、ある程度はしょうがないよね」とのこと。まあそうよね。

「前に見たたけしの映画で、不良達が女の子を誘拐して集団レイプするのよ、みんなで代わりばんこで」「まわす、ってやつね」「そう、もちろんそれは犯罪なんだけど、それは出来るの?」

 

 

数秒間が空いて、一言。
「それは…できるね」

 


「てめぇ本物のクソヤローだな」
「冗談だって」
「全体的にもっとためらえよ このクソッタレ」
「だから、あっちゃん、これは冗談だって」 

 

 

 

とことん   とことん責めぬきながら、盛られた生ハムを箸でつついた。これは許された行為。だいたいね、こんな居酒屋で何か食べながらきれいに拘るなんてそもそも無理なのよ諦めなさい、そう言って、わたしは追加注文をした。ほらアルコール消毒じゃ、頭からかけてやろうか。やめい。やめんわい。ヘラヘラと、酔いながら。夜は汚くてとても楽しい。


<汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく>山崎方代