ピロートーク

やがて性愛

かみ合わぬ理論投げ合い

昨年、嵐の「愛を叫べ」がゼクシィのCMソングをもってヒットした。らしい。そしてわたしの友人は少しおかしくなった。本当に“少し”おかしくなった。
その友人の名は、松井君と言う。男子だ。
ハッキリ言って彼は天才だ。
天才という大雑把な言葉で人を括ったり、もてはやすのはあまり好きでは無いのだけれど、彼の場合そうとしか言い表せられない。正直なところ、わたしにも彼の何が凄いのかよく分からない。でも、松井君と接していると「こいつは只者ではない」「こいつには敵わない」と思い知らされる。

そんな松井君は、元から嵐に多大な好感度を持ち合わせていたこともあったからか「「愛を叫べ」聞いた?」と嵐の新曲を追っていることはさも常識であるかのように聞いてきた。「聞いていない」そう言うと、彼は驚き、頼んでも無いのにその新曲を説明しだした。


嵐の新曲を知っていることはどうやら常識らしいので、皆さんはご存じだろうけれど「愛を叫べ」の要点は以下の4つだ。

・「愛を叫べ」はウエディングソングである
・新郎と嵐のメンバーは高校時代の仲間
・新婦は「俺たちのマドンナ」
・嵐の5人が、新郎新婦の結婚式の余興で歌っている(という設定)

 

 

男の友情というものは、女のそれと比べると、確かなものに喩えられることが多いけれど、松井君が言うにはそんなことは無いらしい。男同士といえども、仲良しグループの全員が平等ということはありえず、何かしらの上下関係や距離感をもって友情は育まれるそうだ。

そんな中、ティーンエイジャーの頃にマドンナを奪い合ったにも関わらず、その友情関係には上下関係が一切無く、新郎新婦を祝福する、嵐らの姿はそれだけで「奇跡」を具現化しており、その奇跡性と「個々の祝福の気持ち」が重なることで更なる奇跡が起こる。そのとき「愛を叫べ」という楽曲の「力」は「真」になるそうだ。実を言うとわたしは、ここらへんから話についていくだけでいっぱいいっぱいだった。


女の友情は偽りだ、みたいなのはよく聞くけれど男もいろいろあるのね。まあ思春期って他者の存在が特に気になる時期だしヒリヒリしたりすることも、あるよねえ。
あんまり友人関係で大きく苦労したことない幸福なわたしは、うすぼんやりとした感想を述べた。よく女性の本音!みたいなWEB記事や特集で、女の友情の浅さというものが語られているけれど正直ピンと来たことがない。いわんや男子をや。


「男と女で友情の成り立ちが違うなんて、そんなことあるはずない。女の友情が脆いとき男の友情も脆いのだよ。」

「でもさあ、その上下関係って松井君の気のせいかもじゃん。それに他のグループにも絶対あるなんて言いきれなくない?」と言い返すと「それは違う。いくら仲良しで平和なグループでも、多少の見えない上下関係が存在する」と断定された。うーーーん、と腑に落ち切れないわたしは、絞り出して言った。

「でも、ほら“のび太の結婚前夜”とか。」
「アニメの話を持ち出すんじゃない」

 

確かに具体例でアニメを出してしまった点で、わたしの負けなのだろう。でも、いわんやアイドルソングをや。わたしだけが負けということは、まさかあるまい。

 

<かみ合わぬ理論投げ合い疲れ果てかたみに寂しく見つめあいたり>道浦母都子

奔放無軌の母を許せよ

モットーは「嘘をつかないこと」と聞いて、生きにくそうな人だな、と思った。
大学時代のバイト先の先輩で、その人は2つ年上の男性で、一年留年しているから学年は一つしか違わなかった。仕事が出来て、長身細身のモテ眼鏡に「俺は嘘だけはつかないんだよね」と言われるとなんとなく、癪にさわった。


試しに、「じゃあわたしのこと可愛いって思いますか」と聞くと「あつこさんみたいなのがたまらなく好きだって思う人は一定の数はいるよ。でも俺のタイプでは無い。」といった言われ方をされた。あつこはあつこで「ブスって言われた方が気が楽です」とさめざめ。

嘘をつかない、っていうのは一見美徳だけれど、イコール本音を全て言う、では無いんだなあと気付いた。と言いつつも、わたしもあまり嘘をつかない。それは「誠実」や「優しさ」等といった大義の元に言わないのではなく、言わない方がずっと楽な気でいられるからだ。嘘をつくと、それだけで疲れる。そして嘘をついたことそのものを責められる可能性もあるし、何かやましいことがあるのではと勘繰られる危険性も高まる。そんなに危うい立場に立つぐらいなら、正直に素直に「わたしは嘘だけはついていません」というポジションで居た方が楽でいられる。だから、嘘はつかない。基本的に。

わたしが大学2年生にもなると、その人は大学3年生で就活をしていたらしい。最初の頃はせっせと説明会やら面接に行っていたようだけれど、なんだかふつりと就活生らしい姿を見せなくなり、いつしか「今日面接サボってスロットしていた」等といったいかにもクズっぽい発言をするようになっていた。その頃にはわたしもその先輩と親しくなっていたから「何してるんすか、親泣きますよ」と軽い口を叩いた。
すると
「いや、親には2次面接だって言ってるんだよね」と言われた。
余計親泣きますよ、と返した後に「嘘、つくこともあるんですね」と言った。別に責めてるんじゃないんだけれど、嘘だけはつかないって言ってたじゃないですか。ちょっと意外。

 

違うんだよ、親はさあ家族じゃん。家族はこれからも一生付き合っていくんだから、うまくやっていくためにも多少の嘘は混ぜなきゃいけないこともあるよ。だけど、家族以外は他人だから、他人に嘘をつく気にはなれないんだよ。

 

そのようなことを長々と言われて、なるほど。一定の説得力があると感じた。
まあ家族なんてものはどうあがいたところで一生家族だし、付き合っていくしかないから、ある程度の距離間や出来るだけうまくやっていくために嘘をついたり思いやりをもって接することが大切だ。わたしは比較的家族とは問題なく過ごせているはずだけれど、嫌でも家族は家族なんだから無理に頑張って好きになる必要も無いと思っている。いくら家族とはいえ、やっぱり性格が合わないとかだったら、もう諦めてしまえば良いだろう。他人だったら、頑張っていなければ関係は離れてしまうけれど、家族なんだし、嫌いになったぐらいでは離れることは出来ない。
密接な関係だから、見て見ぬふりをしたり、知らないふりをする必要や、触れないでそっとしておく優しさ等も必要なことがあるだろう。
たとえば具体的に言うと、わたしは実兄のTwitterアカウントをこの前見つけてしまった。ふとした拍子にだ。でも見つけて以降チェックなどしていない。それはなぜかというと、前述したとおりに「見ないでおこう」と思ったからだ。兄には兄の生き方があるし、もし呟いている内容をわたしに見せたかったとしたら、彼はわたしに言ってくるだろうという自負もある。(ていうか兄の性格的に、ああいうSNSは長続きしないだろう)

わたしは基本的に嘘をつかない。
でも、本当のことばかり言うというのはとても苦しい。できることならハイロウズの「日曜日よりの使者」のような、適当なことばかり言う優しい人になりたい。でもそれは少し難しそうだから、せめて、嘘の少ない心優しき者か、嘘ばかりいい加減なことばかりの心優しきロクデナシになりたい。
そして、こういった日記やTwitterといったSNSでは、出来るだけ適当なことばかり言いたい。嘘もたくさんつきたいし、あることない事話していきたい。
この気持ちは、おそらく、先輩の発言から拾うに、現実世界での言葉に「他人性」を感じているからだ。現実に会ってお話する人は、家族以外は皆他人だ。だから、出来るだけ嘘のなく、正直な自分で接したい。でも、インターネット内では、いくら誰かに向けて言葉を発信したところで、その言葉は自分自身に跳ね返ってきて、心との対話になる。「自分」は自分にとって家族であり、内側の存在だ。だから、こういったところでぐらい嘘を話すことを許してほしい。
これは、懺悔。そして、祈願。


さあて何が言いたいかというと、今回困っていることがある。それはおそらく母がこの日記を読んでいるということだ。なぜ分かったか理由は簡単。わたしのこの日記は、カウンターでログを見る事が出来て、そのログの中に、わたしが家に不在時、家の共有パソコンからのアクセスがあるからである。もうこれだけで十分に分かる。他にもわかる理由はいくつかあるけれど、大きな理由はそこだ。
さあて、どうするかなあ。
とりあえず、コーヒー牛乳(雪印)でも買ってきてください。お風呂上りに飲みたい気分だから。あと、もう読まないでね。大好きよ。


<火の海の真只中に身を焼きし奔放無軌の母を許せよ>中城ふみ子

形なきものを分け合ひ

詳細はよく知らないんだけれど、熊本の震災で被災者女性の生理ナプキンが足りないという声に対して男性の偉い人がナプキンは贅沢品!みたいにトンデモなこと言ったらしく大炎上している。らしい。合ってるよね?

もしこの一件にコメントを求められたら、わたしは「それはヤバいね~言ったのどうせオッサンでしょ~?」と、もう薄っぺらい反応しかするつもりはない。だって今さらわたしなんかが語ることはないでしょう。わたしより賢い優しい人たちが、きっともう語ってくれているはずだ。他者への思いやりや自分達が受けてきた性教育、性への認識の話なんかと絡めて。


まあいい。そちらについての言及や考察は誰かに任す。
それはそうと、わたしは小学生の頃に読んだ児童小説を思い出した。

ルイス・サッカーの「トイレまちがえちゃった!」
小6のときに、町の図書館でのイベントで紹介されて読んだ。アメリカのお話。いわゆる問題児の男子と、スクールカウンセラーの交流を描いた話で、大層感動した。こういった、小説の大枠だけ覚えていて、話の筋や登場人物の名前なんかは忘れてしまった。

話の途中で、問題児の男子が間違って女子トイレに入ってしまう場面だけ唯一覚えている。
(いや、覚えているつもりだけれど、正直正しい記憶かどうか分からないな)
(わたしの記憶が確かなら)
その男子は間違って入ったことにすごく恥ずかしい思いをするんだけれど「女子トイレってもっと内装が綺麗で、鏡に装飾がされていて、男子トイレなんかとは比べ物にならないぐらいの場所だと思ってた」「なあんだ男子トイレのブルーの部分がピンクになっただけのふつうのものじゃん。」と驚く。
ここが凄く印象的だった。

 

もはや震災のナプキンの話とは全然関係ないけれど、少年少女にとっての異性って、凄く遠いものなんだろう。分からないからそこで相手を過大評価したり過小評価したりしたまま大人になる。それはそれで良いんじゃないかなあと思う。だって分からないんだもんねえ。分からないから思考停止することはさほど悪い事じゃないよ。

それよりも、分かった時知った時に、「僕たちは違う人間だね、君はあっち側の人間なんだね」と、思考停止する方がよっぽど危ないのではないかと思う。
でもだからといって「相手のことを知り分かり合うための努力を惜しまない!!!」「お互いに違う人間だから分かり合えた時にとても嬉しい!!!」的なマインドを大切にしようと言いたいんじゃない。だって、分かり合うことを目的にして何がしたいんだろう?と訝しげな気持ちになっちゃう。
分かり合う、というのは目的じゃなくて結果論に過ぎないから、分かった時に自分と他人を分けて考えずに、「なるほど、そういう人もいるのか」「案外自分と他人に違いなんてないんだなあ」と同じワールド内でものを見ることができるのが、一番人間関係としてベターなんじゃないだろうか。ベストとまではいかなくても。

 

もちろん、相手のことを思いやったり、自分以外の人の立場にたって考えてみることは大切だと思う。
でも、ごく個人的な私見だけれど
生理の苦しさとちんちんを持って生きることの面倒さの両方をわたしは同じレベルで知ることは不可能だから、「まあ男の人もさ、ちんちんあったりして色々大変だよね、なんか手伝えることあったら協力するから何でも言ってよ。」としか言えない。一生懸命に分かろうとまではしないけれど、わたしはあなた達のことがとても好きだから、分かった時には受け入れるよ、出来るだけ尊重し合おうよ。怒ったりなんてしないよ。
そりゃあトイレはさあ、間違って入ったら恥かくけれど、案外自分も相手も変わらないんだなあって知ることが出来たなら、今よりずっと生きやすくなるよ。異性も同性も、本当は遠い世界の人じゃなくって自分と地続きのワールドにいるだけなんだよ。だから大丈夫。大丈夫だよ。


<形なきものを分け合ひ二人ゐるこの沈黙を育てゆくべし>小島ゆかり

海がふたりのあこがれとなる

女という生き物は、好きな人と海に行きたくなる生き物なのかもしれないなと考えていたら電車を降り過ごした。まあ急ぎの用じゃないし早めに家を出ていたのでさほど焦ることもなく、逆向きの電車に乗り換える。


ほとんど暴言で、差別的な意識だけれど、まあ自分が女性だからある程度許されるだろう、と思って思考を続けた。


大学生の時、喫茶店で4年間アルバイトをしていた。
小さいお店で夜の時間帯のウェイトレスはわたしだけだった。忙しいときは本当にてんてこまいだけれど、結構自由にのんびり働けてなかなか気に入っていた。(時給はバカ安だったけれど)
お客さんが少ないときや、大きな声の人がいるとき、わたしの定位置のカウンターの近くに座るお客さんの話す声なんかは正直聞こえちゃって、心の中で相槌したり会話に入ることが多かった。

ある雨の夜、やっぱりお客さんが少ない日だった。
カウンター近くの大学生ぐらいのカップルが座った。サービスコーヒーを頼む彼氏と、甘いドリンクを頼む彼女。彼氏はもう糞つまんない経済学部か経営学部って感じで、ぱっとしないタイプ。眼鏡で、なんか中学生が着てそうなぺらぺたの英字プリントされた服を着て、ちょっとイキがっている。いわゆる美少女アニメとか好きそうで、Twitterで中国人や韓国人の悪口書いてそうな。彼女も彼女で、あまり分かりやすい美人ではない感じ。大友克洋タッチの顔で、服装はアイドル声優みたいな、ふりふりしたラブリーワンピース。
どちらも好みの人物像では無いなあと接客をし、聞こえてくる会話に耳を澄ますと、大学の授業の話をしていた。彼氏はやっぱり経済とか経営系らしくて、わたしは自分の目の確かさに内心ガッツポーズをとる。話が二転三転して、彼女が一息をついたあと「海を見に行きたい」と言った。
行こうよ、海。レンタカーとか借りて。
彼女がそう言ったとき、わたしの胸はどきどきした。さっきまでの彼女に対しての心の悪態を謝り、彼の反応が良いことを心底願った。あのときわたしは彼女と同期していた。どうか、どうか「いいね」と話を進めてくれ。口約束で十分だから、今このひとときを満たしてくれ。
彼は「いいね」「よく家族で行った熱海とかいいよね、行こうか」と言った。
「そういう海じゃなくって」と彼女は言い「なんで?熱海良いじゃん」と彼は話を続けた。わざと話をそらしたのかしら、とわたしはハラハラしながら彼女の心を沿っていった。

 

彼女が行きたかったのは、おそらく誰も人のいない海だ。
小さなレンタカーを借りて、二人でナビや地図に悪戦苦闘しながら、街を抜け田舎道を走り港町に着く。波は穏やかで海は二人きりのものになる。砂浜を二人は歩き、波打際へ向かう。波が押し寄せてきて「濡れちゃうよ」と笑う。靴を脱いで裸足になりふざけあったり、砂で遊んだりしてるうちに、いつしか無言になる。
海と自分達しかいなくなったら、この人は何を話すだろうか?私をどのように見つめてくれるだろうか?
私達の果てを現すようなそんな一日を過ごしてみたくって彼女は呟いたのだろう。
実際には行けなくって良い。
いつか二人が別れ別れになった後に「海に行こうって約束したのに、結局行けなかったなあ」と思えるために、今語り合うことができたらそれで彼女は大満足なのだ。ただ、熱海には悪いけれどそれが叶うところは少なくとも熱海ではない。ましてや家族でよく行った思い出の熱海では、違う。彼女にとってもわたしにとっても。その海を思い出すとき、私だけを思い出してほしいから、まっさらな記憶の場所に行かなければならない。

 

ニュアンスの違い等を恐れずにはっきりと言うなら、これはセンチメンタリズム。感傷だ。いじわるな言い方をすれば酔っている。なにしろ、モチーフがありきたりで良くない。今時映画にもならない。
「海」という生命のはじまりのイメージ。もう考察にすらならないけれど、生命の根源に近づき、自分達の始まりの景色を見るなんて、これが感傷と言わずに何と言う。ただ、恋をしている乙女というものは厄介な生き物でそういった光景を求める。かくいうわたしだって、彼と二人きりでそんな海を見る事が出来たら、もう死んでもいい。これは誇大比喩ではない。死んじゃって、いい。思い出に生きたい。


ただ、きっとわたしも彼女も、彼と二人で海に行けないまま恋は終わるだろう。
実際のメモリアルは永遠に生きることは出来ず、この恋の記憶だなんて子どもの頃に家族でした熱海旅行にかき消されてしまう。男の人の言う「海に行きたい」は、感傷よりもナルシズムのが近いイメージ。隣に居るわたしは、風景に紛れてしまいそうな。女の人が彼と海に行きたい、と言う時思う時、彼は海に値する存在になるイメージ。
ああ、大嫌いな言葉だけれど「男女の性差」とでも言ってしまおうか。本当に、暴言ばかり。炎上したって知らないわよ、と自分に釘を打って、「へいヘい合点承知の助~~~」とテキトーに自分を流して、今日も明日も海に行けずに、電車を乗り継いで生きていく。
(乗り継いで行けば海に着けることを知って知らぬふりして憧れ続ける。いつか、車を持っている人と付き合ってみよう。そんなことをぼんやり考えていて。ああ、おやすみなさい)

 

<ウィンドに黄昏の陽が満ちたれば海がふたりのあこがれとなる>三枝昂之

本音までさらってくれてかまいません

きちんと会って話し合おう、だなんて話したいことあるのはそっちでしょ、お互いの問題みたいにして話を進めないでよ、と思ったけれど言葉を飲み込んで日時だけ確定させた。大体、「話したいことがある」という時に話す内容なんてろくなものでないという相場が決まっている。わたしの過去の経験からするに。

 


わたしは、話すのがとても下手で、友達に友達を紹介してもらった時に自己紹介をしたら言葉がたどたどしすぎて「アジア系の留学生の子?」と遠回しに聞かれたことがある。違います、生粋の日本人です、と答えました。答えた後に、“生粋の日本人”という単語って本当の生粋の日本人は使わなさそうだよなあと思ったけれど。それはまた別の話だから今は置いておく。

思っていたことを全部話そうとしたり、自分の中でしか筋道が通っていない話をするから、相手にとっては何を話しているのか分からなくなってしまうのだろうということまでは自分でもわかっているのだけれど、どうにも上手いことまとまりがつかない。
でも自覚があるから、初対面の人と話す際にとても気をつけている。余計なことは言わないように、筋道をたてて、相手によく伝わるように話すということはとても難しい。
親兄弟や昔からの馴染みの友人なんかには、ペラペラペラペラと好きなように話すのだけれど、これが通じているのはそれこそ昔からの馴染みだからに違いない。

 

話し合おう、と言われたからには相手は何かしら話したいことがあるのだろう。
わたしは何て返事をするのが最も効率よく(この場合の効率というのは“流暢か”よりも“効果的に自分の気持ちを伝えることができるか”という演出面が大きい。たとえば涙ぐむタイミングや「ごめん」を言う回数、別れ際の手の振り方など)対応できるかということを考える。

シミュレーションせずにはいられない。
待ち合わせ先から移動する際のことを考えて、靴はどうしようか上着は軽いものにしておこうか。
もしかしたら泣いてしまうかもだから、アイメイクは抑え目にしておくべきか。
わたしが泣いたらきっとあの人は頭を撫でるだろうから髪型はストレートヘアーにしておこうか。
「ごめん」って言われたら、何に謝っているのかきちんと確認して許すこと。
こちらから言いたいことは事前にまとめておいて、適切なタイミングで適当な抑揚で話すこと。
言い方としては「あの時言ってたことと違うじゃない」よりも「あれは嘘だったの?」と聞くこと。前者は責めているみたい。
話すのが下手だから、あらかじめ色々練っておかなければわたしは泣いているだけで時間は終わってしまうだろう。情けないけれど、そうするしか守る方法が思い浮かばない。それでも、泣くと分かっていながら会いに行くんだから、おそらく大馬鹿なのでしょう。


ただ一番の問題は、シミュレーションをしているうちに自分の本音や本当に言いたかったことが、それらしい言葉に置き換えられてしまうことだ。これが今後の課題。本当に、情けない。
でも本音を好きなように言ったらきっとうまくいかなくなるんだもん。でも、でも。こうしてまた言葉を飲み込む。


Xデーが迫っていて、ああ、もう。わたしは本音を飲み過ぎてお腹がいっぱいです。


<水蜜桃あふれてしまう本音までさらってくれてかまいません>田丸まひる

君こそもつと知りたきひとり

「いま言ったじゃない。セクシーって。どういう意味?」
「知らない人を好きになること」


クレストブックスから出ているジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』という短編集では「停電の夜に」という表題作が素晴らしいんだけれど、「セクシー」という話がやけにひっかかっている。


主人公はいろいろあって不倫の恋をしているミランダ。彼女は友人の子供を一日預かることになる。7歳の少年だ。その少年はミランダのクロゼットから恋人のために買ったけれどほとんど着ていないドレスを見つける。着てみて、と懇願されてミランダは着てみせると、少年は「セクシーだ」と言う。7歳の少年が、セクシーという言葉を使うことにミランダは驚く。
そして、冒頭の会話。


ありがちな言葉の実体験を話すのはとても恥ずかしいんだけれど、今よりもずっと若いときに男の子から付き合おうと誘われた。うーん、と唸り、なぜわたしのことが好きなのか問うと(若い娘というのは、こういうことが聞けるものなのである)
「あっちゃんと俺は似ているから」と言われた。
ええええっ。に、似てたのか。ていうか似ているから付き合いたいのか。
「君と僕とはよく似ている」なんて口説き文句がきちんと通用する人なんて本当にいるのだろうか?わたしにはちっとも分からない。ちっともちっともときめきなんかしない。だってわたしが好きになるのは、いつも自分とは全然違う人だった。 自分なんて者は一人いれば十分だし小さな世界よりもわたしの知らないワールドを持ち、手をつないでくれる人が良い。
結局その男の子とは少しだけ付き合ったんだけれどやっぱり駄目だった。そりゃあね、本当にわたし達よく似ているならうまくいくわけないよね。だってわたし自身が、似ている人は嫌だと思っているんだもん。


ミランダの不倫相手の男はデパートの店員だ。二人が関係を持ち始めたころ彼の妻は留守にしていたので気兼ねなく会っていたけれど、彼の妻が帰ってくるようになると、そうそう外で会うことはできなくなる。
初めて彼がミランダの家に来ることになる日、彼女は彼のために新調したドレスに着替え、扉を開けて迎えると、彼はトレーニングウェアでやって来た。「妻にはランニングに出ていると言っているから」 ミランダはクロゼットにドレスを仕舞い、それからは彼女もジーンズで出迎えるようになる。
そして、そのドレスが少年に見つかり、リクエストに受けて着る。少年はミランダをセクシーだと褒める。そして、冒頭の会話。


「いま言ったじゃない。セクシーって。どういう意味?」
「知らない人を好きになること」


わたしは人を好きになることが好きなので、これからもどんどん恋をしていきたいし相手を知りたいと強く思っていきたい。そして知ってしまったことに対してガッカリしたり落ち込むことを、出来るだけ受け入れていきたい。でもわたし器ちっちぇえからな、難しいかもな。

ミランダはトレーニングウェアを着て来た彼を見たときどう思ったのだろう。自分と相手の間に小さな溝のようなものを感じたのだろうか。何かわかっちゃった気が、しただろうか。(物語としては最終的に彼女から距離をとって別れるんだけれど、そのときの会話も秀逸。いつか語りたい)

知っちゃった事実云々もだけれど、気づいた知ってしまった分かっちゃったときに、何か言えるかどうかは、個人の資質の問題で、言ってしまったが最後のことが多い気がする。言ってしまった本人は、それが事実のような気がしてくるし、言われた側は釈然としなくても少し気まずくなる。なんとか埋め合わせようとしても、むなしさを感じてしまい以前のようには無邪気に好意を受け取れない。
と言っても、わたしはそれすら言えない性質なため、そのせいで後になって割を食うことがほとんどだ。これはこれでむなしい。そして、孤独だ。

 

そんなことを考えながら、北杜夫の『幽霊』を読んでいたらこんな一文があった。
「識るということは、ときとすると残忍なことのようだ、それは未知の隠避にまつわる光輝を半ばおおいかくしてしまう。」
北杜夫も言うなら、やっぱり本当のことなのだろうなと過去に思いをはせる。
自分に似ている人を探していた彼は、わたしと別れた後、彼そっくりな女の人に出会えて今頃幸せにやっているのだろうか。それとも未だに探し続けているのだろうか。その女の人は、セクシーなのだろうか。
わたしはわたしで、うまくいかないことの方が多いけれど、元気です。

 

<もろともに冬幾たびを籠りつつ君こそもつと知りたきひとり>今野寿美

思ひ出に折り目をつけて

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る、4月は?

 

うーん、と唸った。
「しゃあない?」
それじゃなんか諦めてる感じ
「しょうもない」
やめなよ4月がかわいそう
「粛々と」
それだ

 

そんな会話を交わしながら、桜並木を並んで歩いた。
粛々と、四月が過ぎて行こうとしていてなんとも心地よい。
「2016年も4分の1が終わっちゃったよ」とも言われたけれど、いいじゃんそれはそれで、とわたしは返せた。
4分の1も終わっちゃった、から。
今だから言えるけれど、2015年はわたしにとって本当にろくでもない1年だった。
良かったことを思い出そうにもひとつも出てこない。何度「今年が厄年なんだっけ?」と調べたことだろう。厄年でも無いのに、一年の間でここまで不幸が集中して訪れるとは、神様(そんなものはいません)は幸不幸の配分をてきとーにやったな、と睨んでいる。
 

わたしの言う“不幸”なんてたかがしれていて、要するに恋愛の話だ。
何があったのかは割愛するが、傷ついたあまりに、仕事が終わった後まっすぐ帰ることはせずに、寄り道に勤しんだ。
わたしの中にまだ生きていた(もしかして突然連絡が来て会うことになるかも)なんていう淡い期待と、何かきらきらしたものでも見たり買わなきゃやってられない、というふらふらの心と、駅に隣しているファッションビルに毎日通った。仕事が落ち着いている時期だったので、それこそ一か月程。
(ここまで傷ついても、会いたいと思って期待してしまうのがわたしの性分なのだろう)

ビルの中のアクセサリー屋には、ピアスにネックレス、髪飾り、ブレスレットなどきらきらしているものがひしめき合っていた。
指輪が欲しい、と思った。
 

身を飾りたてることは、威嚇や祭祀的な祈り、身を守るための本能から来ているとどこかで聞いたことがある。その時のわたしは何かすがるもの誓いを立てるものやわたしを守ってくれる確かなものが欲しくてたまらなかった。手ごろな指輪があったのではめてみた。
ゴールドのシンプルなもの。少し窮屈だけど丁度良かった。値段は2,000円。身を守るなんて安いなあと思いレジに並んだ。

 

それから少しの時間が過ぎて、わたしの心もいくらか冷静さを保てるようになった。いつも落ちこんで泣いているほどわたしも暇じゃ無いし、何しろ白けてきた。白けた気持ちになった頃にようやく以前のように連絡をとりあうことができるようになった。
会おうよ、ということになって約束をとりつけた。じゃあ19時に新宿の、前待ち合わせたところでいい?といざ会おうとするとそれは簡単なことだった。寄り道先を変えるだけ。待ち合わせには、買った指輪を左手薬指にはめていった。
「あ」と気づかれたから、何か聞かれる前に「買ったの」とだけ言った。
その人は何か言いたそうに目をぱちぱちさせていたけれど、話は続かせなかった。
 


それからまた何事も無かったかのように毎日が過ぎて行って、わたしはその人に会うたびにその指輪をしていってる。もう何も言われなくなった。会う時にしかつけないけど、毎日つけていたら跡が残るのかしら。
過ぎていない時間のことは分からないし、過ぎた時間のこともよく分かっていない。
辛すぎた日々は颯爽と過ぎて行っちゃったし、4月も粛々と進み、5月へ向かおうとしている。


では5月は、轟轟と?
じゃあ6月は???


早いこと時間なんて過ぎていって、老婆になってしまいたい。
さすがにその頃にはわたしの傷も癒えているだろう。何かにすがりつかなくても平気なぐらい落ち着いているだろう。わたしの知り合いもきっと皆死んじゃっているだろうから、もうあの人に傷つけられることも無いし、悲しかったことさえも都合よく思い出して、うっとり懐かしめるだろう。

もっと時間よ過ぎてしまえ、早く全部思い出になっちゃえ。そうじゃなきゃやっていけない。

 

<思ひ出に折り目をつけてたたまむか夏の真白きドレスを仕舞ふ>栗木京子