ピロートーク

やがて性愛

無体なる愛の言葉を思ひつつ

結婚したいし、子どもがほしいなと思う。結婚したい理由は、おおざっぱにいうと人生を共にするパートナーが居た方がわたしの人生はもっと面白くなりそうだからだ。


子どもがほしい理由は、おおざっぱにいうと「子を宿し産む」という機能を自分が持ってるらしいからだ。せっかくなら備わってるらしい機能を試してみたい。一人じゃ子どもはつくれないから愛する人やパートナーとの子どもにしたい。わたしにとって、子への愛だのなんだのはその後の話だ。


人間の子どもを育てるのは難しいだろうけれど、やりがいがありそうだし、自分一人の人生じゃ感じられないような想いをたくさん出来そうでなんだか面白そうだ。

結婚も出産も子育ても想像のようにはうまくいかないだろうけれど、どんな結果だったとしても納得して満足したい。

 


でも最近のTwitterやニュースや世相を見ていると、なんだか軽く絶望してしまう。悪いニュースばかり目に映ってるのかもしれないけれど、妊娠、出産、子育て。これからやろうとしてる人、やってる最中の人へのあたりが強いらしくて、とても敵わないなと思ってしまう。こんなに風当たりが強いのなら、もしかしたら一人で生きる方がとやかく言われなくて楽なのかもしれない。


ちなみにここ最近の最大の絶望案件は「赤子が泣いたりうるさい」「赤子が泣くのは良いとして、親は対処する振る舞いを見せてくれ」だ。

赤子の泣き声がうるさいと思うのなら思えばいい。赤子と接する親の対応に不満を持つなら持てばいい。でも赤子に泣くなおとなしくしろというのは無理だろうし、他人に「私が望むように振舞ってみせろ」というのは無茶苦茶だ。


家族や友人相手に自分の要望を通そうと声を張るのはまだ分かる。でもそれだって、所詮は他人なのだから要望が通るとは限らない。わたしは他人が望むようには動かないし動けない。だから他人のこともわたしの意思で動かそうとしないし、してはならないと思っている。

動いてくれたらいいのにと思うことはある。でも、それは、それだけの話だ。わたしはそうやって考えて生きていて、この前友だちに「そんなに正しく生きてて辛くならないの?」と言われてしまった。どんなに辛かったとしても、この考え方はわたしの中でしばらくは変わらないだろう。

そして、わたしがわたしの望むままに他人が動かないことを理解して覚悟するように、あらゆる理不尽や困惑がこれからの人生で多く降ってくることを覚悟する。

政治も制度もお金も何も誰も守ってくれないかもしれない。愛してる愛されてるといった曖昧な愛なんてものだけじゃ立ち向かえないこともあるだろう。でも、きっと最後に愛とかいう曖昧なものが残れば良い方なんだろうと思う。


ちなみにまだ結婚も出産も予定はない。予定ができたらいつか報告します。これでおしまい。

 

<無体なる愛の言葉を思ひつつホース上向け水を湧かしむ>栗木京子