ピロートーク

やがて性愛

あの夏の数かぎりなき

京都の人は京都プライドがすごいから、「前の戦争」っていうと太平洋戦争じゃなくて『応仁の乱』をさすらしい、という話を聞いた。都市伝説?わたしは京都にあまり縁がないから「そうかあ」ぐらいにしか思わない。
京都市以外を京都と認めない、とか、都落ちという言葉に敏感という話は以前どこかで聞いたことあるけれど、まあその程度だ。この話が事実なのだとしたら、応仁の乱は相当凄かったんだろう。ただ、わたしは応仁の乱にあまり縁がないから「そうだろうねえ」ぐらいしか言えない。


仕事で雑談をしていたときに「あつこさんって震災の時何歳だったの」と不意に聞かれた。
文脈的にここでいう「震災」とは、東日本大震災のことだということは分かる。「なんと、わたし高校3年生だったんですよ」と言うと「若!!!!」とのこと。自分でもそう思う。若すぎる。
「大変でしたよ~卒業式も入学式も延期になるし、卒業旅行は中止になっちゃうし」とわたしは話す。相手も「私達は仕事してたな~~電車動かないから●●さんのところに泊めてもらったのよね」と雑談は続く。

東日本大震災が、「あの震災」として共通認識になり、みんなが思い思いにその時何をしていたかを話し出すのは、わたしは実は結構好きだ。不謹慎なのかもしれないけれど、みんなが「あの瞬間」何していたかを知れることは、地球の裏側とテレビ電話しているような感動がある。なんだか感慨深い。震災の影響や被災者や被災地どうこうでは無くて、ただただ、感慨深いのだ。

わたしは確か友達の家で卒業アルバムを見ていたと思う。実家の近くにいたから、帰るのには不便は無かったが、家に着いたら親からめっちゃ心配された。母はパートに行く途中の道だったらしい。仕事は中止になって家に帰ると、ニャンが部屋の隅に隠れて怯えている姿を見たと言っていた。かわいそうに、おおよしよし。

 

母に「東日本大震災の前、お母さんにとっての『あの震災』ってなんだった?」と聞いたら「阪神淡路大震災かしらね~~~あれは凄かったなあ」と言っていた。住んでいる場所や年齢や時代によって、「あの」は変わる。でも同じ「あの」を共有している間、わたし達は同じ方向を見つめている。それは、なんだか、とても凄い。

 

ちなみに今のところ一番感動している「あの」は、幕張で仕事をしていたというKさんだ。Kさんはその日、幕張のホテルの高層階で、お客さんへのセミナーをしていたらしい。Kさんが他の人に頼まれて、おつかいで一瞬ホテルから出たときに揺れたらしい。Kさんは、揺れる高層ビルを見つめながら「俺だけ生き残ってしまうのか」と思ったそうだ。

 

<あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ>小野茂樹