ピロートーク

やがて性愛

「いま風をたべているの」

知り合いが第二子妊娠中らしく、わたしも嬉しい。第一子は坊やだった。産まれたての頃、わたしも抱っこをさせてもらったがとても可愛かった。今は2才になったそうだ。最新の写真を見せてもらったら健やかに成長しているらしく、この前までは赤ちゃんだったのにすっかり「ちびっ子」になっていて感動した。

「本当におめでたいね、坊やもお兄ちゃんになるんだね。嬉しいだろうね」とわたしが言うと「そうなの だけどだめなの」と言われた。な、何がダメなの、と心配したら話は続いた。

「坊やにね『ママのお腹には赤ちゃんが居るんだよ』って教えるじゃん」

教えるね。実際にいるもんね。

「そしたらね、坊や、なんか勘違いしたのか、人間のお腹には赤ちゃんが居るって認識したそうで、自分のお腹さわりながら「赤ちゃん!!!!」って言うのよ」

なるほど、となった。 坊やなりの理屈があり、「通した理屈」と「実際の状況」にギャップがあるところにおかしみや可愛らしさを感じ得る。微笑ましいが、ここで笑ったら坊やにとっては「????」となるだろう。そして、笑われたことに対して、戸惑いや疎外感を覚えることになるだろう。

 

少しだけ違うが、わたしにも同じような経験がある。

5才の頃、わたしはクレヨンしんちゃんが大好きで、漫画をよく読んでいた。漫画の中には、しんちゃん(5才)の母ちゃん、みさえは29才とのことだった。だからわたしは「同い年のしんちゃんの母ちゃんが29才なら、わたしのお母さんも29才なんだろうな」と認識し、わたしの中で母は数年間29才でいた。(母は29才のまま年をとらなかった。母は実際は32才でわたしを産んでいるので、そもそもが間違っていた)

わたしが1年に1歳年をとるように母も1年に1歳年をとる。永遠の29才なんて、ありえない。小学校にあがる頃、干支の話や世間常識としてようやく理屈をつかんで、母の年齢を更新させたが(29才の後にいきなり40歳ぐらいになったんだから全方位型の衝撃)、とにかく子供というのは自分の知っている知識だけで世界の全てを理解しようとし、更に自分のママとパパを基準に大人や世間を測るから無茶苦茶な理屈になりがちだ。そしてそれはカワイイ。(過去の自分含む)

 

兄と新幹線に乗っている時に、雑談としてその話をしたら

 「となるとあれだよな。Twitterとかで大炎上したり、他人に自分一方の理屈をリプライ飛ばす人ってのは子供と同じなんだよな」と言っていた。たぶんそうなんだとわたしも思う。

 

母ちゃん29才以外にも、わたしはいろんな勘違いをしていたが、今となっては全てが微笑ましい。坊やもいつか笑い話にできるだろう。「おれ、子どもの頃、人間のお腹の中には赤ちゃんが居るもんだと思ってたんだよ」なんて。笑いたい。でも、なんだか、笑ってはいけないような気がして、とても愛おしい。

 

<「いま風をたべているの」といふ吾子と自転車のベル鳴らしつつゆく>小野光恵