ピロートーク

やがて性愛

幾度も海を確かめに行く

最近はこのへんはじめっとしていてどうも夏らしくない。暑いのも嫌だけど、どんよりとしているのも陰気くさくて嫌だ。昨日はポケモンGOやりたさに一人で横浜に行き、一日中モンスターボールを投げたり進化させたり街中をうろうろしていたら、日光なんか全然出ていなかったくせに日焼けをしてしまった。
帰りにビタミンC配合ドリンクと、日焼けた肌に塗って炎症を抑えるクリームを買って帰ってぐっすり寝た。何が何だかわからないことが、自分でも多々ある。

まだ日が昇る前に目が覚めたので、本棚から本を適当にとり、読んだ。坂口安吾の『堕落論』『私は海を抱きしめていたい』『日本文化私観』どれも短くてこんな変な朝方に読むのに適しているから、適していなくても大好きな作品だ。

 

昔はもっとセンチメンタルな小説やエッセイが好きだったけれど、こういった文章や最近見ている北野武映画や『男はつらいよ』の影響で、どんどん無頼な気持が高まっている。男女の性による差別や旧時代的な考え方はわたしは大嫌いで人間は人間として生まれて、肉体はたかが肉体に過ぎないから、心を強く持って一人の人間として自由に生きるべし、と考えているんだけれど、どうしても、無頼な男くささに憧れてしまう。わたしは自由に育ってきたけれど、自分で育てた“らしさ”に勝手に抑圧されていて、それを解放する術が欲しいんだと思う。わたしはわたしの心をもっと自由にしてあげたくて、だから、無頼に憧れる。自分が頭が固く保守的なタイプの人間だというのとは、よく解っている。

 

大学では文学部に入り、比較的まじめに勉強をして、あまりサボらなかった。自主休講をしなかった理由は、授業が面白いとか遅れるのが嫌だとか成績を下げたくないとか色々あるが「いつでも海を見に行けるように」というのが一番だった。

ある日何もかも忘れて一人で海を見に行きたくなる日が来るかもしれない、その日に単位や出席日数を気にして、海に行かないという状況になることをわたしは恐れた。結局、海を見に行くことはなかった。石橋を叩いて渡るだの、叩き過ぎて壊しちゃうだの、そんな比喩もよく見かけるが、石橋で例えるなら「石橋を渡らずにただ見つめていた」というのがわたしに最も近いだろう。

 

そしてわたしは、毎朝バスに揺られながら、海へ行く空想を楽しむ。その海は青く少し汚れていて日本のなんてことのない海岸だ。砂浜は黒く、漂着物や貝殻のかけらが落ちている。潮風で髪は乱れる。喉が乾くが自販機は遠く砂に足を取られ、なかなかたどり着けない。空想の中ですらこんな状態だがそれでもわたしは思うだろう。来てよかったと。

そこまでの空想をして今日も海に行かないという選択をする。そしてわたしはまた思う。いつでも行ける、それは今日ではないだけ、だからわたしは大丈夫なのだと。

 

<こみあげる悲しみあれば屋上に幾度も海を確かめに行く>道浦母都子