ピロートーク

やがて性愛

押しつけるせかいではなく

今よりずっと若かったころより、あらゆるものを許せるようになったなと思う。人の嫌な振る舞いや、社会の不条理など、前まではすぐに怒っていたのに最近は穏やかな気持が続いている。が、その分許せないものも出てきた。それは『他者へ欲望を持つこと』だ。

 

この前、友人にイケメンの男の子がたくさん出てくるアニメ映画を見せてもらった。見終わった後に、友人らと「わたしは誰推しだな」とかさんざん話して盛り上がったけれど、まず、そんな自分が気持ち悪い。(※友人らは気持ち悪くない)

数人の人比較して見て「◎◎君が一番カッコいい」とか、一体自分は何を勝手に他人を性的な目で見て評価しているんだろう、となる。

アンパンマンではやきそばパンマンがかっこいい。でもアンパンしょくぱんカレーパンマンならアンパンマンが一番好き」とか平気で言ってたくせに。アンパンマンと違って、イケメンで人間のキャラクターだから駄目ということなのだろうか。わたしはアンパンマンたちを下に見ているのだろうか。いや、まさか、そんなわけあるまい。アンパンマンはわたしの幼少期からのスーパーヒーローなのだ。

 

アニメ映画は凄く面白かったので、その後ネットで登場キャラクタープロフィルを調べたりYouTubeでイメージソングを聞いた。そしたら、また(ああ、駄目だ)となった。

たとえば妹系・弟系のカワイイキャラの子の好きな食べ物が「苺と甘いミルクティ」といった、カワイイイメージの食べ物だと(これは設定なんだ カワイイ子はカワイイキャラでいてほしいという私の願いを製作者が汲んで、設定にしたんだ。これはわたしの欲望なのだ)となってしまう。

イメージソングでもそうだ。

そのアニメでは、歌舞伎の家系に生まれた端正な顔立ちのキャラクターが居る。彼のイメージソングの歌詞に「十六夜」「通りゃんせ」「刹那」といった和風な言葉がちりばめられていて(これもわたしの欲望に過ぎない。歌舞伎の家系の子ならこういう歌が良いだろうという願望が反映されてしまったのだ。本人の意思を無視して…)となる。

 

 

自分が気持ち悪い。

他者へ欲望を持ち、自分の理想像から変わらないでいてほしいと願うなんて、まともな人間同士の付き合いでは無い。2次元のキャラクターは、本当の人間では無いからいいのだろうか。そういうことじゃないだろう。これはわたしの心の問題だ。だって、わたしはこの願望の延長線のところで3次元の存在にも同じようなことを願ってしまっている。でも、きっとわたしだけでは無く、多くの人が、他者へ、それぞれのイメージを勝手に与えて振る舞わせている気がしてならない。

 

明るくて学生時代はソフトボールに熱中していたという子が「鬼束ちひろの歌が好き」と言ったら、「意外だね、嵐とかAKBとかポップソングが好きそうなのに」と、

レースのワンピースがよく似合う、ふわふわパーマの子が「最近 ボルタリングにはまっていて」と言ったら「部屋でおしゃれなフランス映画とか見てそうなのに ギャップがあるね」と思ってしまうし返してしまうだろう。

わたしは自分でも気づかない間に、そういった子たちに自分のイメージを押し付けて勝手に「ギャップがある」「意外」などという評価をしてきている。

わたしの周りの人は「そう見えるかもしれないけれど、でも自分は○○なんです」と、こっちの勝手な願望に振り回されないでいてくれるけれど、芸能人や2次元キャラクターは、どうしても願望が反映されがちなので、わたしの願望は冗長し、固定概念がさらにかたまってしまう。

 

どうか、みんな、わたしの願望なんかに振り回されずに自由に生きてくれ。もし本当に苺とミルクティーが好きなのなら、美しいやまと言葉でかかれた歌を歌いたいのならそれはもちろん構わない。イメージどおりに嵐やAKBを聞くのも、ゴダールの映画や『アメリ』を愛すのも結構。

ただ、わたしはどうしても気持ち悪い人間だ。もう自分でよく分かっている。だから、せめて、その欲望は声にして他者へ出さないように、気を付け、ます。

 

<押しつけるせかいではなくこれはただいとしいひとが置いてった傘>井上法子