ひとつひとつを祈りのように
先日人にお金を貸した。
これまでも千円や二千円ぐらいならサッと貸したり、友達との旅行代を一時的に立て替えるぐらいならしていたけれど、今回はなかなかの大金だ。そのお金の受け渡しに、わたしは新宿駅近くの半地下の喫茶店を指定した。
喫茶店に先に着いたのはわたしだった。
その日は食事をとる暇がなく腹ペコだったので、わたしはコーヒーとホットドックを注文して待っていたら奴が来た。注文カウンターは混雑しているので、わたしはついでに奴の分の注文をした。奴はアイスコーヒーしか飲めないことをわたしは知っている。そしてそれが極度の猫舌だからということも。アイスコーヒーでいいよね?うん、と挨拶もそこそこに、二人前の注文をした。
受け取り口からホットコーヒーとホットドックとアイスコーヒーをトレイに置いて運び、事前にわたしがとっていた席に座ると奴は既にそこに待っていた。
お腹すいてるからわたし食事とりながらだけどすまんね、とムシャムシャとホットドッグを口に運んだ。
まわりくどいのは好きでは無いので「はい、これが例のもの」と封筒に入ったお金を渡した。
「本当にありがとうございます」と恐縮されている。
奴とは誰なのか、はここには書かないがわたしの人生の中で最も信頼を置ける人物の一人で、貸した分は必ず返済されるという保証はある。そして、このお金が何に使われるのかというと、要するに痔の手術代だ。
「わたし痔じゃないからわかんないんだけど、野原ひろしみたいな感じになるの?」
「ひろしは切れ痔だけど俺はいぼ痔だからそこのへんが違うんだよ」
「入院するの?ひろしみたいに」
「自分の場合は日帰りで済む」
「どうやって手術するの?メスを入れるの?」
「痔核に直接薬剤を注射するんだって。そしたらその痔核がやわらかくなってとれるんだよ。それで終わり」
「ひろしは違うの?」
「さっきから、ひろしばっかりだね」
「うん」
「煙草つけんぜ」と奴はタバコを出して火をつけた。
「手術はいつなの」と聞いたら、3月だった。もう予約はしているらしい。おしりに支障が出た時のため、次の日に有給もとったそうだ。なんとなくだけれど、その日はおそらく晴れだろう。そして、わたしはいつもどおり働いているだろう。そんな中、奴はおしりをお医者さんの前で出して手術をするのだと思うと感慨深かった。
春。うららかな陽気。おだやかな風。花のつぼみ。おしりの手術。
こいつはもう季語だな、と思った。春のイメージの中にぼんやりとおしりが浮かび上がる。そしてそれはいぼ痔らしい。
「わかった、わたしはその日フツーに仕事だけど、おいのりするね」
そう言ったら白い煙を吐きながら「おうよ」と言われた。特定の宗教を持たず、祈ることに慣れていないわたしは、両の掌を胸の前で合わせ、そのまま指を組み、おでこにつけて祈る。おしりよ。そこから先の言葉が思い浮かばないから、ひたすらに『おしりよ』と唱え続ける。おしりよ。おしりよ。どうか、どうか。
<清らかにボタンを留めるひとつまたひとつひとつを祈りのように>早坂類