ピロートーク

やがて性愛

有る程の菊投げ入れよ棺の中

中学生から高校生にかけて、友人の影響でレミオロメンのファンだった。 CDを買い、ライブに行き、歌詞や歌に思いをはせた。

 

レミオロメンは今、活動を休止している。よく数えてみると、活動を休止からまる4年も経っていることに気づき、正直驚きを隠せない。時折テレビでギターボーカルだった藤巻さんの名前を見るから、きっと個々に活動をしているのだろう。ソロ活動は追いかけていない。レミオロメンが好きだったからだ。

去年あたりに見たネットの記事で「レミオロメンは死んだ」というものを読んだ。この字面はショックだけれど、きっと多くの人が頷いたことだろう。わたしもしかり。

 

あっ記事見つけた。これだ。 http://basement-times.com/post-6778/

わたしは音楽についてはさほど詳しくないので、音質やジャパニーズミュージック史における立ち位置とか、そういったことはよく分からないので語れない。

大のスピッツファンのわたしが思うにレミオロメンのファン層とスピッツのファン層はなかなか似ていた気がする。日本語をメインとした歌詞に、耳心地のいいリズム。うるさすぎず静かすぎず、抒情的でイメージ。

 

≪レミオロメンが本当に死んでしまったと仮定して≫

わたしはそれは2007年末から2008年上旬にかけての出来事だったと思う。 シングルでいうと「Wonderful&Beautiful」以降。「もっと遠くへ」から途端に違和感を見せてきていた。

「流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じます/せわしく過ぎる日々の中に私とあなたで夢を描く」(3月9日)

「粉雪舞う季節はいつもすれ違い/人混みに紛れても同じ空見てるのに/風に吹かれて似たように凍えるのに」(粉雪)

「茜空 夜と朝の狭間で始まりの孤独に染まろうと/瞳には未来が輝いている そう春だから」(茜空)

「眩しい西日が傾いてきて切ない想いが胸を占める/愛された分まで強くなれ 言い聞かせながら旅は続く」(昭和)

 

例としてあげるならきりがないが、ほんの数曲適当にピックアップするだけで顕著だ。

大ヒットソング3月9日や粉雪というタイトルからもお察しの通り、彼達の歌には絶対的な季節が存在している。

季節が存在するということは、ただ季節のモチーフとなるもの(桜、花火、雪etc.)を歌詞の中に平面的に置くだけではなく、自分自身の存在をきちんと立体的な季節の中に存在させるということだ。

それはスノードームに似ている。

スノードーム的な季節がひたすらに降り注ぐ世界の中に、自分が存在している。 君がいて、僕がいて、僕らをとりまく季節があって、その中で恋は生まれたり自身との葛藤があったり、過去を懐かしがったり、うつりゆく季節を見つめたりしている。

 

≪「もっと遠くへ」以降では。≫

たとえば季節的な歌詞が入っているものを意識的にピックアップしてみる。

「冬の終わりに風が吹いた 妙に暖かくて泣きそうになった/あなたの笑顔がいつでも僕の励みだった」(夢の蕾)

「春の木漏れ日の中に希望の光探しているよ/遠回りしてもいつか出逢えるかな 小さな幸せ」(小さな幸せ)

「手を引いたら柔らかくほほ寄せたら暖かく/綿毛舞う春先の空は青く買い物かごで揺れている」(花鳥風月)

「風は若い秋の匂いで青い稲穂をなびかせた/土手に咲いた彼岸花には小さなトンボとまっていたんだ」(虹をこえて)

「私は夏の花火のような恋ならしたくはないけどあなたの全てを信じていたいの」(花火)

 

わたしにはどうしても季節の言葉や世界観がモチーフとして使われているように感じる。平面的。

スノードームのようにぽっかりと包み込むのではなく、舞台装置のように、歌を歌にするための彩として、言葉が並んでいるように見える。舞台装置型で季節感のある歌というと、わたしは真っ先にヒルクライムの「春夏秋冬」を思い出すが、あれはなかなかいい歌だ。きっと本人の人柄と歌の中のストーリー性がしっくり合っているのだろう。だけれど、わたしが求めていたレミオロメンはそういうものじゃなかった。 もっともっと、自分たちを取り巻く環境に左右され、大地と壁に包まれ、その中できちんと生きて行こうと恋をしようとする「僕」の歌が見たかった。それが演技だったとしても。 立てかけた壁の前に立ち、演出家のいる舞台の上で、シーズンごとの演劇を見せてくれるような安定感を求めてはいなかった。

 

  

やっぱりあれか。ベタすぎる考察だけれど、「もっと遠くへ」でオリンピックのタイアップしたのもあって、創作の感性のピントが過去と変わってしまったのだろうか。今、よく考えてみると「Wonderful&Beautiful」は、ドライブ中に雪に降られてしまった二人の歌だ。スノードーム的世界そのままじゃないか。

それぞれのソロ活動見ていないけれど、さっきふと藤巻さんのソロ曲を調べてみた。タイトルから歌詞から、四季の言葉が多く見られて、この人はもしかすると、言葉の感覚を取り戻そうとしているのかもしれないなんてことを考えた。

いつかまた活動を再開するはず、なんとなくそんな気がしている。わたしは祈る。

 

<有る程の菊投げ入れよ棺の中>夏目漱石