ピロートーク

やがて性愛

君は穢れてなんかいません

世界で一番好きで人生観を変えた詩の話。

「あたしが娼婦になったら」

あたしが娼婦になったら
いちばん最初のおきゃくはゆきぐにのたろうだ。
あたしが娼婦になったら
あたしがいままで買い求めた本をみんな古本屋に売り払って、世界中で一番香りのよい石鹸を買おう
あたしが娼婦になったら
悲しみいっぱい背負ってきた人には、翼をあげよう。
あたしが娼婦になったら
たろうの匂いの残ったプライベートルームは、いつもきれいにそうじして悪いけどもだれもいれない
あたしが娼婦になったら
太陽の下で汗をながしながらお洗濯をしよう
あたしが娼婦になったら
アンドロメダを腕輪にする呪文をおぼえよう
あたしが娼婦になったら
誰にも犯サレナイ少女になろう
あたしが娼婦になったら
悲しみを乗り越えた慈悲深いマリアになろう
あたしが娼婦になったら
黒人(アポロ)に五月の風を教えよう
私が娼婦になったら
黒人からJAZZを押してもらおう
悲しい時にはベッドにはいって
たろうのにおいをかぎ
うれしい時には風に向かってしずかに次に起こることを待ち、
誰かにむしょうに会いたくなったらベッドにもぐって息を殺して遠い星の声を聞こう


中学3年の頃だったか、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』を読んだ。その中で「とある17歳の女子高生が書いた詩」としてこの詩が紹介されていた。
「この女子高校生には、親父たちの性にまつわる生活の暗闇の垢など、みじんも感じられない」
「嫉妬が、愛情や肉体の私有財産化という、独占主義から発していると知るとき、ぼくはむしろ貞淑という名の美徳よりも、この十七歳の女子高校生の優しさに組したい」と寺山のコメントが続いていた。

もちろん処女だった14だか15歳のあつこはくらっくらした。
初エッチは結婚する人と!というドリームと、性に対するあこがれ。どちらが本当の自分の気持ちなのか自分でも分からないようなうら若い心が抱きしめられたような気になった。

どうしても女って性に対して受け身の姿勢になってしまいがちだけれど、それを「与える」ことに変えていく、そんな優しさが好きだ。貞淑や処女性というものよりも、悲しみを背負って来た人に扉を開けて笑顔で迎え入れるような優しさが好きだ。とにもかくにもわたしは優しい人が好きなんだ。

インターネットしてるときよくweb漫画の広告が上やら下にあって、大体はくだらないと思って無視しているが唯一気になったものがあった。曽根富美子の『親なるもの断崖』。広告で見たことある人も多いと思う。貧困のため北海道室蘭の遊郭に売られてきた4人の娘の生涯の話。
https://comic.k-manga.jp/title/86007/pv
漫画の中に、不器量なため女郎としてではなく女郎屋の下働きとしてしか働かせてもらえない道子という少女がいる。器量良しの売れっ子女郎として毎夜働くお梅が「女郎なんかなンもいいことねえ」と言うのに対して、涙を流しながら「したけどおらは女郎になりてえ!!きれいなべべ着て男とりてえ!!」と訴える。その後に格安の下層女郎屋に自ら進んで売られていく。そんなにも道子は女郎になりたかったのだろう。
やがて道子の噂が、お梅の女郎屋に届く。
「どんなみじめったらしい男にも親切に床づけしてやるんだってな 時には一晩中ダメな男を抱いてやるんだってな」と、お梅は心の中で道子へ思いを馳せる。その場面で描かれている、男を取っている道子の姿は素晴らしい笑顔で嬉しそうで、いかにもダメそうな男を抱きしめている。良い笑顔だった。


恐らく幸運なことにそういった時代や家に生まれつかなかったので、わたしは体を売ったことが無いけれど、もし売ることになったら明るく自分の意志で売りに出ようと思った。お梅のような器量よしではないわたしが人に出来ることといったら、明るく優しくふるまうことぐらいだと思う。悲しそうな人を抱きしめたり包みこんであげることだと思う。

さて、いわゆる処女厨の方々。道子やお梅、もう処女ではないわたしは汚れているのでしょうか。
いいえそんな風には思いません。道子もお梅も体を売っているけれど、疲れ切った男たちを自分の体で慰める優しさがありますし、何より一生懸命に生きています。わたしは体を売ったことが無いから比較は変だけれど、自分の意志でのみ体をひらいています。だからどうか女という生き物を、そんな目で見ないでください。


<首筋にある刺青は護身符で君は穢れてなんかいません>牛隆佑