ピロートーク

やがて性愛

愛に友だちはいない

愛と勇気だけが友達さ、とアンパンマンかく語りき。

知恵がついた小学生とかはあの歌詞に対して「愛と勇気だけが友達とかwwww」「バタコさんやジャムおじさんは友達じゃないんだwwww」みたいに笑うけれど、わたしはそのように笑う彼らを、大きな講堂にに召集したうえで力説したい。

 


『はたして君は愛と勇気が自分の友達だと、言い切ることができるのか?』

 

わたしは自分自身にその問いを投げかけ、そしてNOと答える。
愛も勇気も友達だなんてとても呼べない。一方的に慕い憧れてはいるけれど、友達になるべく歩み寄ろうとすることができずに立つすくんでいる。

愛らしきものを手にしたり、触れてみたことはある。彼の人を抱きしめながら抱きしめられながら、これが愛なのかなあとぼんやりと感じたことはあるけれど、どれも遠くへ行ってしまった。
愛が本当に友達だったなら、どこかへ行ってしまうなんてことはなかっただろう。


勇気なんてものは愛以上に遠い存在だ。立派すぎて近寄ることすらできず遠巻きに見つめている。
時々、勇気が通り過ぎて行った際の残り香ぐらいは嗅いだことがあるけれど、その手触りをわたしは知らない。

愛とは「会い」である、と大学時代の先生が教壇で話していた。古典文学の授業で、古語で「あう(逢ふ)」とは結婚をする、愛し合うことであると教えてくれた。通い婚の当時、三日連続で会いに行くことで結婚は成立した。通うというのは夜這いのこと、イコールで会うは通う、寝る、結ばれるということ。大学生のわたしは、結婚や愛の成立のシンプルさを少し羨ましく思った。


あいにいきたい。
会いに行きたいと思ったとき、素直に一歩踏み出せる勇気がほしい。大概は自分の思い通りになんていかずに傷つくのだろうけれど、その勇気が味方について友達になってくれたら、恐れず愛とやらに飛び込んでいけるのに。
いや、結果は自分でもわかっている。
実際に会えたとしても傷つくことの方が絶対に多い。きっと今日は泣くだろう、と思いながら会いに行くことがわたしには多々ある。会いに行けたとしても、そんな種類の一歩を踏み出せたとしても、こんなのちっとも友達とは言えない。
愛も勇気も友達じゃない。だから、くるしい。


先生は、愛とは会いだと教えてくれたけれど、勇気についてや、友だちになり方は教えてくれなかった。先生、どうしたらいいんでしょう。先生、わたしもアンパンマンみたいに強くて優しい人になって愛と勇気と友達になりたいです。その二つがあれば、わたし、やっていける気がします。アンパンマンみたいに誰にでも優しく接することができる人になれる気がするんです。先生、先生、教えてください。

 

<逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない>雪舟えま