そんな男の夢を見ている
猫好きの人と、猫の話で盛り上がった。
「わたし猫のふぐり好きなんですよねえ」「うちでは“にゃん玉”って呼んでるですよ」「うちの猫のとか触っちゃうんです」そんなことを言っても笑ってくれてとても素敵な人だなあと思った。
その日は楽しくおしゃべりをして、じゃあまたね、と夜にバイバイした。
その人と、後日また会ったときに携帯のフォルダから画像を見せてもらった。
「ほら、あっちゃんこの前猫のふぐり好きだって言ってたじゃない」
「はい」
「だから画像たくさん取っておいたんだよ。見て。」
おそらくグーグル画像検索で「猫 ふぐり」とでも調べたのだろう。
フォルダの中にはそれはそれはたくさんの猫のふぐり、いや、にゃん玉の画像が。
前に話してそれじゃあまたねって別れたその後から、この人はまたわたしに会うつもりでいたんだなあって思うと、わたしよりずっと年上の男とはいえ、可愛く感じてしまう。
画像はどれもどれも可愛かった。
「わあ、かわいいですねえ!」
「でしょう、ほらまだあるよ」
出てくる出てくる、にゃん玉画像。
「この町でこんなにふぐりの画像持ってるの、〇〇さんだけだと思います」
「うん、俺もそう思うね」
そしてその画像は全部わたしのためにあるの。
わたしを喜ばせるためにあるの。
「今度猫カフェ行こうか」
「そうですね」
よく分からない安堵感と満足感で猫の話を終えた。
わたしと会わないときも、わたしのことを考えてくれていたり、わたしを喜ばすことを考えていてくれる人がいるというのは嬉しいものだなあと思った。
わたしと会いたいと思ってくれる人がいるなんて幸せだ。
わたしは女子高に通っていたのだけれど、高2の1年間、現代文を担当していた池田先生が、離任式で壇上に立ち話していてくれたことを思い出す。
「もう一度会いたいなと思ってもらえるような女性になりなさい。」
その言葉は、高2のわたしにとってなんだかハッとさせられる一言で、3年が過ぎた今でも胸に残った一言だった。
『もう一度会いたい』そのエネルギーが恋愛を始めるのに大切だと思う。
その猫ふぐりを見せてくれた人は、わたしと会う日のためにエネルギーを傾けてくれたのだと思うと、感謝とときめきで胸がいっぱいになる。
会いたいです
そうメールを入れたらその人は会ってくれるのだろうな。
でもそんなこと言ってやるもんか。
その人のことは大好きだけれど、甘くみてやろうと思う。
人生で一番好きな小説の中で『甘くみあわないで、どうやってひとは愛しあえるだろう。許しあって、油断しあって、ほんのすこしばかり見くだしあって、ひとは初めて愛しあえるんじゃないだろうか。』とあった。
その人はわたしと前にバイバイした後も、また会えると踏んでいたのだろう。(それは自分から連絡を入れるのか、わたしが会いたいというのを待つのかは分からないけれど、変な自信によって成り立つ)
だから、次わたしと会う時のために画像をたくさん取っておいた。(わたしが喜ぶだろう、とそこも甘くみられていた)
策略通りかなんだか、わたしはまんまとその画像を見せてもらって喜んだ。
いやな男だ。
だけれど、その分いい男だ。
わたしはたぶんもうしばらくはその人のことを好きでいると思う。
だけれど、だけれど、やっぱり悔しいからわたしも甘くみるし油断するし許してもあげるし、ほんの少しばかり見下してやろう。
どうせいつかは消える恋だから、良い関係を保つことに全力を注ぎたい。
もちろん、会いたいですが。
それとこれとは、別のおはなし。
〈みずうみを渡ればきっと待っているそんな男の夢を見ている〉東めぐみ