ピロートーク

やがて性愛

僕は君を<冬>と名付けた

バイト先の喫茶店の常連さんに、外国人のとてもかっこいい男の人(日本語ペラペラ)が来ている。
他の店員のおねえさんやお兄さんみんなこっそりと、「あの人すごくかっこいいよね」と話しているけれど、外国人に興味がないわたしとしては「あぁまあはい、そうですねえ良い顔してますねえ」としか思わなかった。
近所の別の喫茶店で店員をしていることは知っていたんだけれど、
名前はなんだろうとか考えたことないし、ヨーロッパ系だというのは分かるけれどどこ出身なのか、とか、年齢も気にならないし、とりあえずただのお客さんの一人だった。


先日、バイトしているときに男のバイトの先輩と話して、その人がウクライナ出身で名前がTさんであることを教わった。


それからというものの、一気に好きになってしまった。
コーヒーを出しに行くたびに、お釣りを渡すたびに、微笑みかけられるたびに、ドキドキドキドキする。
これも、何もかも名前のせいだと思う。


名前を知るというのはすごいことだと思う。
その人を個人として認識して、ファイリングするんだもん。

万葉集の時代の日本なんて、『名前を教える=結婚』だったんだから、ほら、しょうがないわよ…なんて謎の言い訳を自分の中でしているぐらい重症にこじらせている。


名前を持つというのはすごいことだと思う。そしてそれを教える・知るというのはもっとすごいことだ。
わたしは今回Tさんから直接名前を教えてもらったわけでは無いから、Tさんの中でわたしは未だに「自分のなかで一個人として認識するには至らない」存在なのだけれど、知ってしまったわたしにとったらもう、TさんはTさんでしかない。他の人にはならないし、変えようのない、ただ一人の「Tさん」だ。
もしTさんに、こっそり「お名前何て言うんですか?」とか「名前教えてもらっていいですか?」とか言われたら、わたしは何て言うのだろう。
美しい発音と発声で「あつこです」と答えられるのだろうか。
きっとTさんはわたしの名を問うことは無いとは思うけれど、もしそうなったら…と思うと胸がはずむ。


スピッツで『名前をつけてやる』という曲がある。
初期の、まあ地味めな曲なのだけれど、この題名の中の“つけてやる”という上から目線と投げやりな感じがとても良い。
曲を知っている人にしかわからないと思うけれど、
「似た者同士が出会い→安らぎを覚える→無言の合図→最後の夜を迎える」という構図がとても魅力的だ。
そしてサビの「名前をつけてやる/残りの夜が来て/むき出しのでっぱり ごまかせない夜が来て/名前をつけてやる/本気で考えちゃった/誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな」の中からは、「この世界には君と僕の二人きり」という雰囲気からは、幼さやエロを感じさせられる。恋人同士になった二人が、二人でいるときだけは独特のあだ名で呼び合うような甘ったるさとバカバカしさが、この歌の世界を作りあげる。
君のこの名を知っているのは呼べるのは僕だけ、という支配感。
ちゃちな約束ゆえの悲しさ。


ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ノーネーム』という曲では
「曲がらない意志を頂戴」「消えない愛を頂戴」そうけだるく歌ったあとに「淡く淡く光る/気が遠くなるほど遠いあの星も空で集い/そして点と線で絵になり名前が付いた/そうなんだよ」「名前をくれよ」と、小さな星座にも名前がつけられたように、自分にも名前が欲しいとつぶやく。
誰に向かって言っているの?わからない。
ただ、どこの誰かもわからない「あなた」に名前をつけてもらうことで、世界に認めてもらいたい、自分をただ一人の自分として認識してほしい、という切なる願い・祈りを感じられる。


(夏目友人帳読んでいる人ならわかるんじゃないかなぁ…)

(ついでに、だからわたしはキラキラネームとか超反対派です!)


具体的に、実際にTさんとどうにかなりたいとか、そういうことは思わないけれど、わたしの中で一個人として認められたように、ほんの少しでもわたしをわたしとして認めてもらいたい。
これはTさんに限ったことではなくて、ずるい言葉だけれど、「みんな」に対してそう思う。
スタバでお茶しているときにやたら目が合う向かいの席のサラリーマン、電車の中ですごく近い距離で同じ駅で降りた女子大生、本屋で同じ本を手に取ったお兄さん、誰もかれも、わたしの中では一時的に「さっき同じお店にいたお姉さん」みたいな名前がつけられるから、だからわたしにも名前をつけていてほしい。そして出来ることならそれを教えてほしいとも思う。
この気持ちを、「自意識過剰」とかの一言で済まさないで。
わたしに名前をつけて。
そして名前を呼んで。


〈ぼくは君を<冬>と名付けた 君はぼくを<泥>と名付けた ハレルヤ!〉森本平