ピロートーク

やがて性愛

おれの話をちょっと聞いてくれよ

小中学生のころに書きめぐった「プロフィール帳」のことを思いだし、懐かしい気持ちになった。あれは良いカルチャーだったと思う。今でもあるのだろうか。
当時書いていた時、まあ多少人の目を(読まれるということを)意識しながら書いてはいたし、少しぐらいは気を使ったとは思うけれど、それより自分のことを語るという面白さの方が勝っていた。
小中学生は、大人よりも「自分を語る」手段や機会や語彙が少ない。だから、自分なりの言葉で精いっぱい自分のことをどうにか記したかったんだと思う。すごくよく分かる。


大人になった今だって肩書を持たぬ一般市民ゆえに、せめて何が好きでどういう人なのかぐらい自分で好きに語って、身の回りの友人ぐらいからの認識くらいは得たいとわたしは思ってしまう。つまりのところ、自分のことや自分の好きなもののことを語りたくてしょうがない。

 




親友の一人に、好きなものがころころ変わる子がいる。
わたしは会うたびにその子に今好きなものを聞く。それが楽しい。


彼女は「好きな食べ物」は3か月ごとに更新されていく。
ここ数か月でいうと、


★★亭のオムライス定食⇒スシローのサーモンのお寿司⇒おいしい豆腐、と。


「好きなもの」は、


中学時代:スポーツチームの●●⇒高校時代:アイドルグループの▲▲⇒大学時代:ミュージシャンの■■⇒社会人:◆◆劇団、と変動し続けている。

わたしはというと病めるときも健やかなるときも、アンパンマンドラえもんが好きだった。スピッツに夢中で、カレーや甘いものを食べ続けている。漫画は、ガラスの仮面ばかり読み返している。そして語る。こんな生活をもう15年近く続けている。
だからみんなから「あつこはちっとも変わらないね」とよく言われる。そうなんだと思う。

わたし、きっと死ぬ直前までアンパンマンドラえもんが好だろう。他に好きなものが増えるかもしれないが、アンパンマンドラえもんへの情熱はずっと続いてしまうだろう。



だから、彼女のことをいいなあ、と思う。「好き」の気持ちと人生が同時に動いている。懐かしさを感じるチャンスと思い出のリンクが多くて、なんだか楽しそうだ。
わたしがガラスの仮面を読んでいるこの間も、彼女は何かに出会い、衝撃を受け、好きになる。好きなものがどんどん増えて世界も広がっているのだろう。とても羨ましい。

たぶん何枚プロフィール帳を書いても、わたしはそんなに書くこと変わらなくて、つまらない同じことばかり繰り返す。でも書きたい。変わっていく面白さは欲しいが変わらない。こればっかりは性分だからね、と割り切って たうえでそれを楽しみたい。

そうだ、中学生の女の子が使うようなラブリーなプロフィール帳を買おう。それで友達にたくさん書いてもらって、たくさん遊ぼう。どうかあなたにも一枚書いてもらいたい。
 

<「枝毛切るその真剣な目でおれの話をちょっと聞いてくれよ。」>植松大輔

相聞の歌など持たず

夜中に電話で話していた。相手は少し酔っていて、さっきまでの飲み会のことやこの前のデートの話や仕事が忙しいということについて、酔っぱらい独特の緩急つけた調子で話していた。わたしも色々話す。会話に一瞬間が生まれて、あ と言うより先に「それでいつ結婚しようか」と言われた。

 

女性雑誌やヤフー知恵袋やインターネットコラムでは「彼がなかなか結婚に踏み切ってくれない」「私と結婚する気あるのかしら 彼にとったら遊びなのかしら」みたいな悩み相談がたくさんあるのをわたしは知っているから、その点、わたしはそれらについて悩まずに済むようで良かったなとは思う。

 

でも 友だちと夜遅くまで遊んだり 一人で出かけたり 家族に甘えたり 自分のために料理を作ったりする今の暮らしが楽しいし、病床の母が「死ぬ前に娘の花嫁姿を見たい」と懇願してるわけでもなし、お金や住むところに困っているわけでもなし、急いで結婚したいということは無いし今すぐにはしたくない。今、結婚したらわたしはきっと『もっと遊びたかった!!!』となると思う。

 

だからといってプロポーズの言葉をジロリジロリと待つのはじれったい。白か黒か、の二択は絞りすぎだとは思うけど、わたしは白か黒かグレーかその他、ぐらいの大らかではっきりした選択肢を提示する、されることを求める。

 

 

「結婚のタイミングとか見極めるのって絶対難しいから、たとえば2年後の2019年の5月にしましょう、と約束だけしてそれまでは今までどおり楽しくやるのがいいんじゃない?現地集合みたいな」と提案したら
ONE PIECEの二年間の修行期間じゃないんだからそんなにロマンのないこと言わないでくれ」なんて言われてしまった。

ONE PIECEはきちんと読んでないけれど、あんな大冒険スペクタクル漫画と重なる部分があるならかなりロマンのある提案なのでは?と、内心思った。


建設的で、ストレスのない良い提案だと思ったのだけれど(それに実行したら絶対思い出になる)それだけが良いことでは無いらしい。ロマンというのは良い面倒と良い厄介が付きもの、なのだろうか。 そういう自分公式を作って、人を当てはめていくのは、ちょっと違うなと思う。確実でフェアーで無理が無い、そんな選択肢を見つけ出したいがまだ見つからない。やっぱりあれがベストだったように思う。

 

<みづみづしき相聞の歌など持たず疲れしときは君に倚りゆく>石川不二子

幾度も海を確かめに行く

最近はこのへんはじめっとしていてどうも夏らしくない。暑いのも嫌だけど、どんよりとしているのも陰気くさくて嫌だ。昨日はポケモンGOやりたさに一人で横浜に行き、一日中モンスターボールを投げたり進化させたり街中をうろうろしていたら、日光なんか全然出ていなかったくせに日焼けをしてしまった。
帰りにビタミンC配合ドリンクと、日焼けた肌に塗って炎症を抑えるクリームを買って帰ってぐっすり寝た。何が何だかわからないことが、自分でも多々ある。

まだ日が昇る前に目が覚めたので、本棚から本を適当にとり、読んだ。坂口安吾の『堕落論』『私は海を抱きしめていたい』『日本文化私観』どれも短くてこんな変な朝方に読むのに適しているから、適していなくても大好きな作品だ。

 

昔はもっとセンチメンタルな小説やエッセイが好きだったけれど、こういった文章や最近見ている北野武映画や『男はつらいよ』の影響で、どんどん無頼な気持が高まっている。男女の性による差別や旧時代的な考え方はわたしは大嫌いで人間は人間として生まれて、肉体はたかが肉体に過ぎないから、心を強く持って一人の人間として自由に生きるべし、と考えているんだけれど、どうしても、無頼な男くささに憧れてしまう。わたしは自由に育ってきたけれど、自分で育てた“らしさ”に勝手に抑圧されていて、それを解放する術が欲しいんだと思う。わたしはわたしの心をもっと自由にしてあげたくて、だから、無頼に憧れる。自分が頭が固く保守的なタイプの人間だというのとは、よく解っている。

 

大学では文学部に入り、比較的まじめに勉強をして、あまりサボらなかった。自主休講をしなかった理由は、授業が面白いとか遅れるのが嫌だとか成績を下げたくないとか色々あるが「いつでも海を見に行けるように」というのが一番だった。

ある日何もかも忘れて一人で海を見に行きたくなる日が来るかもしれない、その日に単位や出席日数を気にして、海に行かないという状況になることをわたしは恐れた。結局、海を見に行くことはなかった。石橋を叩いて渡るだの、叩き過ぎて壊しちゃうだの、そんな比喩もよく見かけるが、石橋で例えるなら「石橋を渡らずにただ見つめていた」というのがわたしに最も近いだろう。

 

そしてわたしは、毎朝バスに揺られながら、海へ行く空想を楽しむ。その海は青く少し汚れていて日本のなんてことのない海岸だ。砂浜は黒く、漂着物や貝殻のかけらが落ちている。潮風で髪は乱れる。喉が乾くが自販機は遠く砂に足を取られ、なかなかたどり着けない。空想の中ですらこんな状態だがそれでもわたしは思うだろう。来てよかったと。

そこまでの空想をして今日も海に行かないという選択をする。そしてわたしはまた思う。いつでも行ける、それは今日ではないだけ、だからわたしは大丈夫なのだと。

 

<こみあげる悲しみあれば屋上に幾度も海を確かめに行く>道浦母都子

部屋のまんなかでくらくらとなる

昔 付き合っていた人が、作文が好きだったのか作家に憧れていたのか、自分で書いた小説やエッセイや詩や作文をよく読ませてくれた。多分彼には才能は無かったようで、わたしはたいして面白くも美しくも無いな、と思いつつ、でもそうは言えないので、適当に「いいね」「良かった」等と言っていた。

 

いくつか忘れられないフレーズ(思い出すだけでこっちがこっぱずかしくなるようなもの)はもちろんあるが、その中でも特出している気がするのは、エッセイの冒頭部分で「人生はよく旅だという」というものだ。ありきたりな言葉で面白味も斬新さも無ければたいして引き込まれないもので、文学少女だったわたしは内心ケッと思ったものだ。

 

今週末夏の休暇として静岡の方へ1泊2日の小さな旅行をしてくる。わたしは旅支度というものがへたで、頭の中で何かを構築できず、全て書き出したうえで、直前まであれやこれや悩み、大荷物になりがちだ。今回もそのとおりで、初日はあの服を着てあの荷物を持って、二日目は何を着て、そのためにはこれを持って行って…と考えだしたらきりが無いわりに、ぽんやりと思考が進まず、前日の夜ばかり更けていく。

 

たった一泊二日の旅支度でこんなに手間取っているのなら、わたしの人生と言う名の旅とやらは、胎児期間が10月10日どころか、15年ぐらい必要になってしまうだろう。お母さん、苦労をかけてごめんなさい。人生は旅なのだろうか。ちくしょう、くそくらえだ。そんな比喩や聞き覚えのあるフレーズと、わたくしめの人生が重ねられてたまるか。

むしゃくしゃしてカバンに着替えやらタオルやらつめこんで、思考が止まりぽんやりとする。しばらくしてハッとして、携帯用のメイク落としシートが無いことに気づき、夜中にいそいそとコンビニに出かける。自分の要領の悪さにほとほとため息が出る。やっぱり、人生は旅なのかもしれない。そう思いながら。

 

<片づけてもかたづけてもつひに氣に入らぬ部屋のまんなかでくらくらとなる>石川信雄

押しつけるせかいではなく

今よりずっと若かったころより、あらゆるものを許せるようになったなと思う。人の嫌な振る舞いや、社会の不条理など、前まではすぐに怒っていたのに最近は穏やかな気持が続いている。が、その分許せないものも出てきた。それは『他者へ欲望を持つこと』だ。

 

この前、友人にイケメンの男の子がたくさん出てくるアニメ映画を見せてもらった。見終わった後に、友人らと「わたしは誰推しだな」とかさんざん話して盛り上がったけれど、まず、そんな自分が気持ち悪い。(※友人らは気持ち悪くない)

数人の人比較して見て「◎◎君が一番カッコいい」とか、一体自分は何を勝手に他人を性的な目で見て評価しているんだろう、となる。

アンパンマンではやきそばパンマンがかっこいい。でもアンパンしょくぱんカレーパンマンならアンパンマンが一番好き」とか平気で言ってたくせに。アンパンマンと違って、イケメンで人間のキャラクターだから駄目ということなのだろうか。わたしはアンパンマンたちを下に見ているのだろうか。いや、まさか、そんなわけあるまい。アンパンマンはわたしの幼少期からのスーパーヒーローなのだ。

 

アニメ映画は凄く面白かったので、その後ネットで登場キャラクタープロフィルを調べたりYouTubeでイメージソングを聞いた。そしたら、また(ああ、駄目だ)となった。

たとえば妹系・弟系のカワイイキャラの子の好きな食べ物が「苺と甘いミルクティ」といった、カワイイイメージの食べ物だと(これは設定なんだ カワイイ子はカワイイキャラでいてほしいという私の願いを製作者が汲んで、設定にしたんだ。これはわたしの欲望なのだ)となってしまう。

イメージソングでもそうだ。

そのアニメでは、歌舞伎の家系に生まれた端正な顔立ちのキャラクターが居る。彼のイメージソングの歌詞に「十六夜」「通りゃんせ」「刹那」といった和風な言葉がちりばめられていて(これもわたしの欲望に過ぎない。歌舞伎の家系の子ならこういう歌が良いだろうという願望が反映されてしまったのだ。本人の意思を無視して…)となる。

 

 

自分が気持ち悪い。

他者へ欲望を持ち、自分の理想像から変わらないでいてほしいと願うなんて、まともな人間同士の付き合いでは無い。2次元のキャラクターは、本当の人間では無いからいいのだろうか。そういうことじゃないだろう。これはわたしの心の問題だ。だって、わたしはこの願望の延長線のところで3次元の存在にも同じようなことを願ってしまっている。でも、きっとわたしだけでは無く、多くの人が、他者へ、それぞれのイメージを勝手に与えて振る舞わせている気がしてならない。

 

明るくて学生時代はソフトボールに熱中していたという子が「鬼束ちひろの歌が好き」と言ったら、「意外だね、嵐とかAKBとかポップソングが好きそうなのに」と、

レースのワンピースがよく似合う、ふわふわパーマの子が「最近 ボルタリングにはまっていて」と言ったら「部屋でおしゃれなフランス映画とか見てそうなのに ギャップがあるね」と思ってしまうし返してしまうだろう。

わたしは自分でも気づかない間に、そういった子たちに自分のイメージを押し付けて勝手に「ギャップがある」「意外」などという評価をしてきている。

わたしの周りの人は「そう見えるかもしれないけれど、でも自分は○○なんです」と、こっちの勝手な願望に振り回されないでいてくれるけれど、芸能人や2次元キャラクターは、どうしても願望が反映されがちなので、わたしの願望は冗長し、固定概念がさらにかたまってしまう。

 

どうか、みんな、わたしの願望なんかに振り回されずに自由に生きてくれ。もし本当に苺とミルクティーが好きなのなら、美しいやまと言葉でかかれた歌を歌いたいのならそれはもちろん構わない。イメージどおりに嵐やAKBを聞くのも、ゴダールの映画や『アメリ』を愛すのも結構。

ただ、わたしはどうしても気持ち悪い人間だ。もう自分でよく分かっている。だから、せめて、その欲望は声にして他者へ出さないように、気を付け、ます。

 

<押しつけるせかいではなくこれはただいとしいひとが置いてった傘>井上法子

長生きができたらいいな

死ぬほど、という比喩が凄く好きでたまらなくって、聞くたびについニヤニヤしちゃう。

わたしが今おつとめをしている会社は、今は閑静な雰囲気の街にあるけれど、数年前までは、若者の街という感じのところにあったらしい。周辺にはレストランや飲み屋やカフェやバーがたくさんあり、ランチや飲み会には苦労しなかったそうだ。
ベテランのおねえさまがたが「前の本社はぼろっちかったけどランチ環境は良かったわよね」と今でも時々言っていて「このへんはいい飲み屋が死ぬほど無い」と愚痴をはいていた。


面白くてたまらない。
あのおねえさんが、いい飲み屋が無いために死んでしまう姿をイメージする。死ぬと言っても色々あるから、この場合どのような死に方が一番適しているかを考える。きっと、太陽の光を浴びたドラキュラが無念そうに砂化していく、そんなのが似合うと思う。
あのおねえさんのことはかなり好きだから、もちろん死んでほしくないけど、でも、いい飲み屋の無さにあのおねえさんが砂化して死んでしまったら、わたしは多分お腹を抱えて転げまわって笑うと思う。


このことを友人に話すと「大体笑いとは不謹慎ですよね」と言われた。
「実にそのとおり」
「お葬式での変なクシャミとか」
「それクソ面白いやつ」
「説教中のオナラとか」
「よっ大統領」
全面的に大肯定したその流れで、『絶対に嫌な死に方』と言う話になった。

わたしは圧死と焼死、友人は「一番意識がギリギリまでありそう」という理由で水死が一番に嫌だという。“理想の死に方”をせーので言ったらお互いに「腹上死」で手を叩いて笑った。

わたしの周囲には『太く短く生きて結婚もしない子どもも持たなくていい 無になって死にたい』という人が何名かいる。
『太く短く生きる』の対義語が『細く長く生きる』なのだとしたら、そりゃみんな元気な今の内は太くて長い方を選ぶよな、と思う。
若くして死ぬと決まった運命なら、無をめざして結婚もせず子どもも持たずに死ぬのもありかもしれないが、わたしは太く長く健康寿命伸ばしまくりで180歳ぐらいまで生きていきたい。
180年の命があるなら、結婚は数回、子どもは10人ぐらい出産したい。それだけの歳月で得たものを、無にして死にいくのは勿体ないからゴチャゴチャとあらゆるものに囲まれて死にたい。本音は死にたくないけど、わたしは三途の川を大荷物で渡ることになるだろう。

「これは成人のお祝いでもらったネックレスで、これは飼ってたニャンの写真、これは最初の夫と新婚旅行のハワイで買ったマグネット、これはリっちゃんとお揃いで買ったディズニーのキーホルダー、こっちは初孫の乳歯」と川岸でお店屋さん状態にことになりそうだ。鬼だか死神だかも呆れるだろう。死ぬほどに。そうだ。死ぬほどに、生きたい。

 

<長生きができたらいな    ひまわりの黄は漆黒にあんがい似てるね>早坂類

 

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」

カウンター席に並んで二人で食事をしていた時に言われた。


犬を飼いたいんだよね


わたしは飼ったことこそ無いけれど、大賛成した。いいねいいね、ワンちゃんがいる生活って憧れちゃう。そう言いながら、柴犬、マルチーズヨークシャーテリアポメラニアン、フレンチブルドック、レトリーバー、秋田犬、ダルメシアン、チワワ。ありとあらゆるワンちゃんと、一緒に野原を走る自分をイメージした。それは素晴らしく楽しい景色だった。


実家ではずっと犬飼っててさ、もう実家なんてめったに帰らないけど、その帰る理由も犬に会うためだけだし。今の家はペット可なんだよ。お隣が犬飼ってるみたいで。


この人のLINEアイコンはかわいいワンちゃんだったことを思い出す。
「一人暮らしでワンちゃん飼うのって大変そうだもんね 」
もしこの人の家にワンちゃんがいるのだったら、わたしは「大変!わたしとこんなところで飲んでる暇ないわよ!ワンちゃんのところへ帰ってあげなさい!」とすぐさま帰らさせただろう。そして「ねえワンちゃん撫でたいからわたしもおうち行きたい」と自らねだっただろう。
任天堂からWiiが出たばかりの頃、Twitterか他所のインターネットで「女の子を家に連れ込むには『俺んちWiiあるよ』が効果的だ」という発言を見た。ふだんゲームをしないわたしだって、Wiiやってみたさに、ふらふらついていきたくなるけど、ワンニャンには敵わない。
「俺んち、犬いるから見に来ない?」だけでわたしのことはまんまとお持ち帰りが出来る。この人の家に限らず、全然好きじゃない人の家にだってひとりで夜中あがり込むだろう。そのぐらい“犬”が居る家は凄い。

 

そうなんだよ、独り暮らしだとどうしても限界があるよね。
じゃあ犬飼うからあつこさん結婚しない?俺、あつこさんのこと養えるし、そしたら犬も飼えるよ


自分ひとり分の食い扶持ぐらいならわたしだってなんとか稼げているし、専業主婦希望というわけじゃない。でも、ワンちゃん。
「打算的に見ても悪くない条件ね」と言ってしまった。
「でしょう」
「ワンちゃん飼ってからもう一度プロポーズしてくれたら前向きに考える」
「ペットショップにでも行くかな」
「だめ、保健所からもらってきて里親にならないとお嫁に行ってあげない」
「厳しいな」
「このぐらいでしか結婚のハードルを高くできないのよ」


少しだけ飲んだお酒で、ただでさえゆるゆるな結婚のハードルがさらに下がっている。人生なんてこんなノリで舵をとってもいいのかもしれない。カウンター席の下で、指をつまむように、手をつないだ。

 

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」/穂村弘