ピロートーク

やがて性愛

死にたる者を許しはしない

愛する人がゾンビになったらどうするか?
噛まれて一緒にゾンビとして生きるかそれと撃ち殺すか、で散々もめた。

「本当に愛しているなら噛まれるべきだろう」「いや、でも愛する人をそのままゾンビにしておくのは真実の愛では無いのでは…」と、散々もめた。
(結果的に話はとっ散らかって「旅行しようよ~~!島とか行きたい!」となった。)


中高生の頃はいなかったのに、大人になるうちに随分とゾンビが増えた。ガチゾンビではなくて、友達ゾンビ青春ゾンビ恋愛ゾンビといった亜種ゾンビ。

思春期や学生時代に出来なかったことと出来なかった自分が、過去の時代の中で死に、大人になって甦っているのだろう。そしてゾンビになり、彷徨っているのだろう。そして、もっと年を重ねるうちに、結婚ゾンビ出世ゾンビ老後ゾンビみたいなのが生まれてくるのだろう。

友達ゾンビになったからって他人に噛みつこうとしても、多分撃ち殺されるが関の山で、もし噛みつけても多分相手はゾンビにはならない。
「友達が欲しい」「青春を感じてみたい」「恋愛をしたい」といったゾンビ念は、亜種ゾンビ本人あるいは同じ考えを持つ別ゾンビにしか通じない。そういったこじらせを感じたことが無い人には、言葉を尽くして説明をしても、100%の理解はきっと難しいんだと思う。

ただなあ、愛する人が亜種ゾンビになってしまったら……

 

 

わたしは撃ち殺すかもしれない。
うるさーい!真実の愛も糞も無いわ!!!わたしゃ生きるぞ! とガレージにあったパパの猟銃を手に持つ気がする。ホームセンターには逃げない。
ゾンビになったならゾンビなりに楽しめばいい。“こじらせ”は要するに僻み根性だ。持ってしまう生まれてしまう感じてしまうのはしょうがないけれど、他人に噛みつかずに、ゾンビなりに楽しんで過ごしてよ。

わたしは「はだしのゲン」と「漂流教室」が大好きで、何が何でも生き延びてやる・ひどい環境になってしまったらその環境で最大限のことをしてそれなりに前向きに暮らしてやる、というメンタルで生きている。
ゾンビに噛まれてしまったら噛まれてしまったでそれなりにやっていける自信はあるけれど、わたしはできるだけ元気に健やかな視点で生きていきたい。

あと、いわゆる「オタク」の人もゾンビタイプが多いからな、わたしゃ好かんのだよね。リア充爆ぜろ、とか言っちゃあかんよ。「一般の人」と「オタクの私」みたいに自ら区別しているくせに僻んだり苦手意識持ったりするのはフェアじゃないよ、と思う。
(だって、オタクの人はオタクの人で楽しそうじゃん。噛むことないじゃん)


今考えるとわたしの元恋人や疎遠になってしまった友人にはゾンビタイプが多かったように思う。だから疎遠になってしまったのだろう。ただ、元恋人のB君、あんただけは許さん。墓に眠れ。終わり。

 

<死にたる者を許しはしない誰よりもどの死者よりも濃くまといくる>鈴木英子

羽海野チカの漫画。 その2

羽海野漫画でもう一カ所気になること。、誰もかれも「父親」が居ない。学術的に論じようとするなら「父性の喪失」とでも言うんでしょうか。
ハチクロだと、はぐちゃん、森田さん、竹本くん。
ライオンだと桐山零や川本家3姉妹(一度死んでしまい、復活ののちに殺した)(殺しちゃないけれどこの言葉がしっくりくる)
キャラクター達にお父さんはいないけれど、代用の人物は存在しているのが救いだと思う。修ちゃんや馨やカズさん、幸田のお父さんやおじいちゃんや美咲おばちゃん。みんな、やたらと強いメンタルを持っているから、キャラクター達はぐれたりいじけたりしないで済んでいる。

物語における「父性の喪失」は、わたしなんかが今さら語る必要無いぐらいにもう語られ尽くしているのでそこは放置。ただ、父親には父親にしかできないことが(少なくとも漫画には)ある。残された人々は、父性の代用品を自分か他者に見つけて生きていく。

 

『3月のライオン』は、吉田秋生の『海街Diary』と構造がとても似ている。欠けた家族で暮らす3姉妹と父を失った「他人」が歴史ある街で生きていく。こんなに似ていていいの?流行っているの???まあそれはいいや。
「父」を失ったとき、それを補う


には、他者を媒介することできょうだいの絆を強めるしかないのだろうか。だとしたら、なんか凄くシェイクスピア的な話になってくるぞ。まだまだ思考を練って行かねばならない。わたしはこういう「遊び」が凄く好きなのだ。


調べてた時に見つけたおもしろいブログやコラム達。

・『三軒茶谷の別館』
島田開が父性を担っているっていう点は気付かなかったな~~~確かに。
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20100411/1270949525%E3%81%8A%E3%80%8E%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%BF%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%B3%E3%80%8F%E3%81%AE%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%AF%8D%E6%80%A7%E6%84%9B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/cu6k/1255D0A6-6BE2-47F9-86A6-61D9DFFEC228

・『ポンコツ山田.com』
あかりおねいちゃんの持つ父性について。ほほう。
http://d.hatena.ne.jp/yamada10-07/20110730/1312020079


・『深夜のサカマキ貝』
「母性の喪失」と「おやすみプンプン」(浅野いにお)について。良いブログ名だなあ。
http://krmyhi.wix.com/shell-in-the-night#!%E6%B5%85%E9%87%8E%E3%81%84%E3%81%AB

・『ドラコラム』
ドラえもんの持つ母性と父性の両寓性について。時代背景とともに。ちょっと違うけれどこれはこれで面白い。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~toshio/DoraColumn/DoraColumn021.html

羽海野チカの漫画。

今さらだけど、羽海野チカの漫画が好き。読んでいると、いちいち心を動かされて忙しい。批評や皮肉を言う暇もないほどに好きだし、多分これからもずっと読み続けると思う。


「ハチミツとクローバー」「3月のライオン」のどちらも、天才を書いた漫画。
はぐちゃんや森田さんや、桐山零や様々な棋士が、自分の才能とどうやって向き合っているか、どうやって「天才」になったのか、その才能が他人からどのように受け取られるか。天才では無かったわたし達も、漫画を通して「天才」を知り、感情移入することが出来る。
でも、自分が実際にはぐちゃんの同級生だったり、棋士だったら、嫉妬したり恐れたり「天才のことは分かんねーよー」と遠ざけたかもしれないな、と思う。わたしは、性格が結構悪い。知ってた?

羽海野さんのことは、あんまり知らない。
コミックスのおまけに書かれた作者の日常コーナーや、キャラクターブックに書かれた対談や他の漫画家のコメントでしか、作者の面影を感じたことが無い。ツイッターをやってるらしいけれど、なんとなくフォローはまだしていない。でも、なんていうか、きっと「天才」なんだと思う。だから、漫画の中で“天才”と呼ばれる人を描かずにはいられないんだという気がしている。

 

ハチクロ6巻で、はぐちゃんがキャンバスを前にうずくまっている姿。
ライオン8巻で柳原棋匠が周囲からの“襷”を掴み、盤を見つめる姿。


こういった姿と見たことのない羽海野さんの姿が重なる。内臓のどこかがキリキリちりちりする。ごめん、ごめん、わたしには分からない。でも、分かりたい・応援したい。そんな気持ちになる。

羽海野漫画を通してわたし達は「才能や使命と向き合って生きることの大変さ」を知ることができる。そして、才能と使命というセットを背負いこんで生きるのは、しんどそうだということも。
強い才能は他人を巻き込むものだから、自分一人だけの世界にはどうしても居られない。自分の背負いこんでいた荷物だけではなく、他人から何かを抱えこまされたり守らなきゃいけないものなんかも生まれてくる。そうすると、何かを創作したり戦うためにあけていた両手が不自由になる。

重いものを背負っていても、何かを抱えこまずに両手を自由に広げられることは本当に難しいだと思い知らされる。森田さんや森田父のようになるのは、きっと相当強くなければ難しい。
(あの父子は本当によく似ている。馨はつらかったろうな。だからいろいろ抱えてしまったんだろうな。両手がふさいで何かに没頭するしか無かったんだろうな)

今さら何かの天才にはなれない自分と、母の再婚によって初めて自分自身のことを考えなければならなくなった竹本くんの姿が、家族を失って将棋に没頭するしか無かった桐山くんの姿が、ここで重なる。竹本くんは自分の道を見つけられたし、桐山君もかじりついてかじりついて生きている。

だから、大丈夫。もがくしか無い。自分に出来ることを精いっぱいやってみて、その後の人生のことは、その後に考えることにする。

性愛のつづきをしよう

雑誌のイマドキ女子の生活白書なる記事より。
彼氏の有無、平均給与額、平均貯蓄額、結婚したい年齢の平均値、といった中に、ピンク色の飾り文字で、体験人数、初体験時の年齢、イったことの有無、頻度、好きなプレイが書かれている。あらゆる平均値がそこには有る。これがイマドキ女子か。


ティーン雑誌にもこんな感じの記事とこんな感じのピンクな項目があったけれど、あの時は「エッチ(H)」だった。いつのまに「セックス(SEX)」になったのだろう。やってることは変わらないのに。何が変わったんだろう、わたしか?いや、うちら(対象雑誌を読んでいるであろう同年代の女子達含むわたし個人)か???

まあ いいか。やってることは変わらないんだし。


平均値よりも大切なのは絶対値だ。殊に恋愛や性事情においては。
自分が何を求めるか、何を嫌だと思うか。相手に何をしてもらいたくて何をしてあげたいか。コミュニケーションだからね、しゃーない。あるある。自分の性は他人に侵されてはならないものなので、比較より何より自分の心を大切に、相手と向き合いましょう。保健の教科書かっつーの。えへ。

 

黙れよ「頻度」と雑誌を丸め、横の立ち読みレディの後頭部をひっぱたいた。レディは倒れ、泡を吹く。わたしは少しだけすっきりして本屋を立ち去る。そんな空想をしながら本を書棚に戻した。サイドには誰も居ないので安心なされ。

 

この日記を書き始めたのは、わたしのぼんやりとした承認欲求と文章力の向上が主な目的。且つ、わたしの周りに起きた「よくないこと」も、文章にまとめてみれば、気持ち的に収まるんじゃないかしら?という期待からだ。でも、良くないことも起きなきゃ何も書けやしない。イコール。「ハッピーライフを過ごしている?」ノンノン。「そういう話しではない」。

わりとポジティブな性格なので、家族友人仕事なんかじゃあまり悩まない。やり過ごせる強さを身に着けている。ただ、恋愛だけはどうも駄目だね。どうしても、駄目だね。ちっとも書けやしない。

というのも、会えていない。「体調が悪い」と「忙しい」が重なってしまったらしい。でも来週会う約束しているし、連絡は普通にとりあっているので、特に深い意味は無いって自分では分かってる。でもね、駄目だね。この年齢にしてセックスレスですよ。あ、今分かった。エッチとセックスの違い。エッチだと、レスになった状態の時の言葉が無いね。レスになる状態を結び合える関係になったら、その行為は「セックス」になるということでいいかしら。自分ではなんか腑に落ちた。(すとーん!)

 

そういえば「エッチ」だった頃は、いつか途切れる日が来るなんて考えやしなかった。でも自分のことしか考えられていなかった。「セックス」になったら、相手のことを考えるようになったけれど、途切れる可能性も生まれたんだから。互いに良し悪しだね。詮無いね。愛しているよ、だから、燃えて死ね。

 

<やわらかく煮込み終えたら性愛のつづきをしようあかるい夜の>田丸まひる

 

どうしてもつかめなかつた

テレビの健康番組で顎関節症をゲストの医者がパネルを使ってタレント達に紹介しているのを見て、中学時代の友人Tを思い出した。Tは、なんか変な子だったなあと思う。ふつうに可愛くて勉強もできる子だった。一時は凄く仲良くしていたけれど、なんか変なことを言う子だった。


「あつこにだけ言うね、Tね、実は病気なの」
部活帰り、夕方の下足箱付近で打ち明けられた。
(よく考えるとすごくそれらしいシチュエーション
「顎関節症っていう病気なの、治らないんだって」と言われた。
がくかんせつしょー?となったけれど「治らない」「あつこにだけ」という言葉が気持ちを重くした。
あれから10年。わたしは10年間かかって、Tは何か勘違いをしていたか話を盛っていた、ということを知った。テレビの医者曰く、顎関節症は若い女性がなりやすく、症状が重いとしんどいが治る病だとのこと。

「今度温泉旅行しようよ。うちに旅行のチケットがあるから無料なんだ。伊勢エビとか蟹みたいな御馳走も超食べられるし、部屋から海も見えるんだよ。あつこの家族を誘っても平気だよ。みんなで行こうよ。」
これは初夏の登校中に言われた。旅行かあ、ええなあ、とぼんやりしていたら一日が終わった。下校時に一緒に帰る時Tに言われた。
「今朝の旅行の話。あれ、実は全部ウソ。騙された?」
えっ、と思い、とっさに「忘れていた」と言うと「なんだ、楽しみにしているかと思った」とのこと。
(でも、今思うと中学生が考えたわりには渋い旅行プランだなあ)

 

小さな嘘や見栄をつかれ、話を盛られることが多かった。お父さんは○○大学を出て××に勤めしている、親戚の人が△△をしている、みたいなほんの小さなもの。
わたしはいつも信じこみ、後になってそれが嘘だったことを知る。騙しやすかったのかな。そのうち疎遠になっていった。不信がたまったことが原因じゃない。だた、互いに付き合う友人のジャンルが自然に変わっていった。

彼女のよく分からない嘘や話の盛りは、「少女期によくある症状」と呼ばれるものだったのかもしれない。

 

吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』(文庫版)巻末に収録されていたエッセイを読んでハッとなった。ラヴァーズ・キスは鎌倉を舞台にした高校生男女6人のラブストーリーで、それぞれの思いの交錯が読み手の胸をしめつける。高校時代の感覚を思い出した有吉玉青さんの文章。

 

「次々と頭と心を悩ますような出来事がふりかかってくる。それについては、その対処の仕方がわからなかった。悩み方がわからないのだ。もっと言うなら、なにで悩んでいるのかが、わからない。たとえば、失恋をしたにしても、そのあと心を覆うさまざまな感情が手にあまった。互いに心を開いて話し合える友達のいることは心強かったが、表現力に事欠いて「失恋のショック」としか言えないことが、もどかしかった。」

「問題を整理できるほどの言葉も経験もなく、よって問題が何であるかも定かでない。また、それがわかったところで、問題には解決のつかないものがあるということを知らず、ごまかしたり折り合いをつける、あるいは開き直ってしまうといった、生きてゆく上での小技を知らない。かくして、その時代の問題は、そのときに処理しきれなかったまま残っているのである。」

 

中学時代、わたしは嫌な思いをたくさんしたし、わたしもきっとたくさん人を傷つけてきた。でも、何も言えなかったし何も言われなかった。自分の気持ちを表現する術を知らなかった。気持ちを表す言葉を獲得したのなんてここ数年のことだし、本当の気持ちなんて未だに言えやしない。こういう人って多いんじゃないかと思う。

当時の話をしていると、自分の言葉によって気づかされる感情が多くある。

 

「なんで嘘つくの?」

例えば、わたしはTにそう言いたかったんだと思う。でも言えなかったし思いつきもしなかった。

今となって、わたしは話すけれど、それは今の言語感覚から推測された当時のわたしの心境に過ぎない。「当時のわたし」はきっと、今でも言葉にできないもやもやを抱えているのだろうし、10年越しに表現されることなんかきっと求めちゃいないだろう。でも今のわたしには言語化して寄り添ってやるぐらいしか出来ない。過去に生きている人を抱きしめることはできないのだ。

 

<どうしてもつかめなかつた風中の白き羽毛のやうなひとこと>今野寿美

俺のように生きてみせろと

 

美味しい美味しいとムシャパク食べていたら「作り甲斐がないなあ」と言われた。気持ちは分かるが何だその言いぐさは。わたしに彦摩呂になれとでも?出された食事には2センテンス以上のコメントしないと死後神の裁きにあうとでも?と、可愛げゼロな悪態をつく。だって普通に超おいしい。

 


てなわけで繊細なコメントを食事に向けることがとても苦手。
「うまみハイパー」「マグロぐらい美味しい」「お土産に持って帰りたい」といった『気の抜けた食レポ(友人Iによる命名)』をいつもしている。
だから、おにぎり、サンドイッチ、丼ものといったメニューには心から感謝をしている。これらは「おいしい」の一言で済み、コメントを多く残すことが野暮にすら見える。もし、コメントを求められたら、その場に合わせた方を褒めればいい。(例えば、新潟で食べるおにぎりは「お米がおいしい」と、北海道で食べる鮭おにぎりは「やっぱり北海道の鮭は一味違う」のように)

 


それはそうと、会社の近くに「てんや」がある。
「てんや」の前には、シーズンごとに大きなメニューポスターが2枚貼られている。
今(2016年7月20日現在)は「活〆穴子と海老・めごちの夏天丼」「ポークロース生姜だれ天丼」。ポスターを見るたびに(めごちって、どんな魚なんだろう、おいしそう。)(穴子いいなあ、食べたいなあ)と思う。
でも、いざ、店内に入るとわたしは「ポークロース生姜だれ天丼」を頼んでしまう。今に始まったことじゃない。ローストビーフ天丼ハンバーグ天丼チーズソースがけとり天丼。各シーズンごとの邪道天丼をわたしは一度ずつ食べてきた。ていうか「てんや」で普通の天丼を食べたことが無い。


邪道天丼の長所は美味しさが分かりやすくてノーストレスでムシャパクペロリと食べ終えられるところだ。そりゃそうだ、わざわざ天ぷらにしなくても美味しいものばかりだし、安いし、一人で食べているんだから食レポやコメントを求められることもない。短所は一つも無い。むしろ、短所はわたしだ。無意識の内に分かりやすさを求めて、基本天丼は頼まずに邪道天丼ばかり食べているってわたしは、なんか、糞ダサい。

 

わたしは何から逃げて誰の目を気にして天丼を食べているんだろう。何とたたかっているつもりなんだろう。複雑な料理は複雑な料理なりに、単純な料理は単純な料理なりにおいしい。恐れることは無い。おいしい、それだけで良いはずだ。敵は自分だ。おいしいをためらうな。自分の味覚を信じろとは言わないけれど、デリシャスオーライ。逃げたなりに戦え、楽しめ。生きる。

 

<もう二度と振り返らざる背が叫ぶ俺のように生きてみせろと>道浦母都子

なまぐさく口あけている夜の路地

サブちゃんの話。

大学生のとき授業が終わり、まだ日が落ちないうちに家に帰ったら家に居た母親に驚かれた。 「あら、早いわね!寄り道しなかったんだ!」と、普段バイトだデートだと寄り道しては夜遅くに帰ってくるわたしへの嫌味かしら。「まあね」と言うと「それじゃ、サブちゃんに会ってきた?」と。

サブちゃん?????

誰、サブちゃん。 「えっ知らないの?話してないっけ、ほら、あの、人畜無害のサブロウちゃんよ」

いや、だから、誰、サブちゃん

「ほら、駅前によく居るじゃない。煙草吸ってよだれ垂らしているオッサン」

 

……あれがサブちゃんか!!!!!!!

サブちゃんは居た。 いつもいつも駅に居て、煙草を吸っては咳をし、オエッオエッとえづいて「あんた煙草やめたほうがええんちゃうか」とアドバイス欲を湧かせる。そして両ひざに両手を合わせた前傾の姿勢で、口を開き、よだれを垂らしている。

高校時代の下校中「見ちゃいけないんだろうな」という気にさせ続けていた、あの彼がサブちゃんだった。

「お母さんもパート仲間から聞いたんだけれどね、サブちゃん、○○の所のアパートに息子さんと二人で暮らしていて、昼間息子さんが仕事でいない間は暇だから駅で時間つぶしているんだって。でも、よだれ垂らしたりタバコ吸ったりえづいているだけで人には何もしないから人畜無害のサブロウちゃんって皆から呼ばれているんだって。それでね、サブちゃん、昔悪い女に騙されてスッテンテンになったらしくって。だから息子さんと二人暮らしなのかしら、でも夜には帰るそうよ。だからあんた昼間だから見たかなって思って」

情報量が多すぎて3回ぐらい話を聞き返したけれど、要するにそういうことだそうだ。わたしは、このテの話に弱い。単なるオッサンが物語を持ったオッサンになる瞬間。わたしの胸は果てしないキュン騒ぎになる。

 

今後わたしはサブちゃんを見るたびに人の人生という大きなストーリーを想う。彼の人生がどうこうということではない。生きるとはストーリーを紡ぎだすことだ。そのストーリーを誰かと共有する時、「あなた」の生きた時間軸と「わたし」が交差する気がする。ストーリーを感じさせる人に、わたしは弱い。

 

しばらくして母が言った。 「そういえばサブちゃんのこと聞いた?」と言ってきた

「サブちゃんね、なんか息子さんのはからいで昼間はデイサービスに通いはじめたらしいよ」

聞いてるわけねえじゃん、と思ったけれど、それじゃあサブちゃんにはもう会えなくなるのかもしれない。元からレアキャラだったけれど、そうとなると、少しだけ淋しく感じた。

 

またしばらくして。数か月前の話である。

わたしは飲み会後に終電を逃してしまい、どうにかこうにかタクシーで帰ることになった。なんとか最寄りの駅に降ろしてもらうとサブちゃんはそこにいた。夜中の1時とか2時頃のことである。わたしはヒイィッと小さく声をあげた。そのぐらい、夜中に前傾姿勢でたたずむサブちゃんは気味が悪かった。

人をちょっと知っただけで、その人を知ったような気になるのはいけない。サブちゃんはサブちゃんなりの事情があってここにいるんだろう。でも、さすがにこの時間帯は危ないよ、そう思った。サブちゃん。タバコはハイライトのサブちゃん。缶コーヒーが好きなサブちゃん。女に騙されてスッテンテンにされた、サブちゃん。人畜無害のサブちゃん。(全て母による情報)

サブちゃん、わたしはあなたをきっと忘れない。あなたはわたしをきっと知らない。でも、わたしは遠くから近くからあなたの幸せを祈る。でも、やっぱりタバコは多分やめたほうがいいと思う。なんかマジでやばいって、それ。

 

<なまぐさく口あけている夜の路地そこより風は起こりくるのか>長瀬和美